琥珀の慟哭(下) 35 (65)
やはり、華子を襲撃したのは磯貝なのだろうか。それを楠田は庇ったのか?
益々よくわからなかった。
「確かに、磯貝さんは陸を脅して饅頭に
「そうですかね。俺はそう思わないです。じゃあ、約束してください。磯貝さんと二人になりそうになったら俺に連絡ください。俺には失うものがないで」
失うものがないと言い切った楠田の表情はどこか切なさを感じた。
華子は泣きそうな顔になる。
「ちょっと何それ。聞き捨てならないわ。失うものがないって」
「だって。そうでしょう。俺は人殺しだし、母親も父親もいない。だから悲しむ人も……いない」
華子は首を横に振り、楠田の目を見る。
「それは違うよ。私は悲しいよ。それにね、保護監察官の藤山さん。あと、あなたの弁護士の古川さん。その三人は絶対、悲しむわ。それにあなたを信用して仕事を任してくれた会社の人たちも」
楠田は口をかみ締めた。涙をこられているのか、楠田は震える。
「……華子さん」
「だから、そんなことを言わないで。ね」
「……でも、俺は華子さんの力になりたいです」
「いいの。その気持ちだけで。私はそれだけでいいから」
楠田は華子の言葉に涙を流す。華子はハンカチを差し出した。
楠田は何も言わずにそれを受け取り、涙を拭った。
「でも、約束してください。何かあったら絶対に俺に連絡ください」
「南田君。それはできない」
「それはどうして!」
「どうしても。あなたを巻き込みたくないからよ。解って頂戴」
「……華子さん」
華子は楠田を見つめた。楠田は唇を噛み締める。
「南田君には未来がある。これからもしっかり生きて、この社会で貢献していかなければいけない。年寄りの巻き添えになってはいけない」
「……でも、じゃあ、俺が華子さんにできることはないってことですか?」
「違うよ。しっかりと生きてくれることが私への恩返しになるのよ。お願い」
華子の願いは結局、叶わなかったのだろう。
この言葉がすごく痛々しく思えてきた。楠田は涙を流す。
「華子さん。俺は華子さんにしてもらってばかりで」
「そんなこと、気にしないで。年長者が若者を導くものですよ」
華子の表情は女神のように見えた。これまで見た表情の中でも綺麗だった。楠田は華子の言葉に食い下がる。
「……わかりました。ただし、危険な目に遭わないでください」
「大丈夫。陸がいるし、それに祐もね。いっぱしの息子がいるから!大丈夫!」
華子は満足げに言った。楠田は心配しつつも、大丈夫だろうと判断したのか、それ以上は何も言わなかった。華子は少し何かを考えているのか、思い立つ。
「わかった。じゃあ、手を打っておきますよ」
「手を打つって?」
「内緒だよ。それは教えられない」
「ん?」
楠田は華子の顔を怪訝な表情で見た。華子の思いついたことは、もしかしたら、自身に万が一のことがあったら手紙を残そうと思ったのだろうか。
それ以外に考えられなかった。
華子は微笑みながら言う。
「まあまあ、とにかく大丈夫だから」
「大丈夫って」
「大丈夫。あなたの過去が見える力が絶対、武器になる」
「武器って。え?こんな呪われた能力なんてないほうがいいですよ。悪いものを引いたような気分ですよ」
楠田の言葉は心の底からの出たように見えた。楠田にとってはこの能力で、母親に棄てられたと思っているからだ。楠田の母親の
「前にも話したけど、気味悪い能力じゃないよ。凄い能力よ。絶対に役立てて頂戴」
華子は曇りない目で楠田に言った。そんな瞬間のあと、思い出は再び切り替わった。今度はどんな場面だろうか。私は祈るような思いで、次の思い出を見ることにした。
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南田は
格子の向こうから、看守が来る気配がする。楠田はその方向に目を向けた。
楠田に気づいた看守は足を止めることなく、格子の前に着く。
薄暗いがそれが看守の伊藤だと解る。
「よ、眠れないのか?」
伊藤は抑えた声で馴れ馴れしく話しかけてきた。
楠田は馴れ馴れしさに嫌悪を抱きつつも、伊藤の気遣いが少しだけ嬉しかった。
「……見回りですか?」
「ああ、そうだ。お前はこのままでいいのか」
「このままでいいのかってくどい。もう、いいじゃないですか」
「……もう、いいって。お前の表情はそう見えないけどな。まあ。俺はお前の未来が見えているからな」
伊藤の不敵な笑いは夜中に見ると不気味だった。
端正な顔なのに、何処か謎めいた雰囲気がそうさせているのだろう。
「見えてるって?なにを?」
「あー。だめだめ。俺は人に、この先、どんな未来があるか言わないようにしている。だから、南田君にも教えられないよぉ」
伊藤はわざとらしく言った。南田はその言い方が気に入らず、黙り込んで、背を向けた。
伊藤は少しだけ笑う。
「そう、機嫌悪くするな。そうだな。少しだけ何か教える。お前の欲しかったもの、お前が望むものが……手に入るかもな」
「……なんですか?それ」
「まあ、俺もお前の気持ちはわかる。じゃあな」
「は?いい加減にしろよ。解ったような口、聞きやがって!」
南田は腹が立ち、声を荒げた。伊藤は慌てて、格子から手を出し南田の口を塞ぐ。
「おい、待て、静かに」
「……静かにって。もう、俺に関わるのを止めてください」
「……悪かったって。俺さ、お前を見ているとどうしても昔の自分自身を思い出すんだよ。だからだ。けど、お前にとっては大迷惑みたいだから、ここの見回りやらないようにするから安心しろ」
伊藤はすっと離れて反対側に向かって消えていった。
南田は伊藤の言った言葉「欲しかったもの」が何なのか解らなかった。
欲しいものなどない。それが頭の中をよぎった。
琥珀の慟哭(下)35 了
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