トパーズの憂鬱 (下) 3


 男性の手を掴んだ人物が言う。


「おい。やめろよ。彼女、泣いているだろう」

「っち。うるせーな」

 

 男性は掴んできた相手の顔を見て、去っていく。男性の手を掴んだ相手の顔が見えない。

 一体誰だろう。次第に見えてきたのは叶井かない遊作ゆうさくだった。

 美砂子は遊作の顔を見ても、何も表情を変えなかった。遊作は美砂子と別れたときよりも、少し老けて見えた。遊作が美砂子に声を掛ける。


「美砂子、大丈夫か?」

「……遊作…。ありがとう」


 美砂子は遊作と解り、涙を拭う。遊作は美砂子を見つめる。


「旦那と上手くいっていないの?」

「遊作には関係ないでしょう」


 美砂子は遊作をぼんやりと見る。遊作は申し訳なさそうな表情を浮かべた。

 けれど、遊作は美砂子との再会が少しだけ嬉しいようだ。


「お前が俺を許せない気持ち解るよ。俺は最低なことしたと思っている。ごめん」


 遊作は頭を下げる。美砂子はその様子をぼんやりと見るだけだった。


「もう終わったことだし」


 美砂子は遊作に背を向けて歩き出す。

 遊作はその背中に向かって「子供に…会わせてくれないか」と言い、美砂子の手を掴んだ。

 美砂子は振り返って遊作を見る。

 美砂子は返答に困る。遊作は美砂子が何も言わないのを焦った。


「……無理な話だよな。美砂子は結婚しているし。ごめん、変なこと言って。でも、いつか、会わせてほしい」


 遊作の表情はこれまでにないほどに痛ましいものだった。

 美砂子は遊作を見つめた。

 遊作は美砂子の手を離すと、上着からメモとペンを出し、何かを書く。

 遊作は書き終わるとその紙を美砂子の手に渡す。


「これ。俺の連絡先。美砂子は俺のことを憎いかもしれない。けど、もし困ったことがあったらいつでも、連絡してくれ」


 遊作のまっすぐに美砂子を見ていた。美砂子は遊作の目を反らした。


「そんなこと言っていると、澤地さんが怒るよ」

「亮子か。あいつとは結婚していない。俺は会社を辞めた。今、小さいけど自営業をやってる」

「そうなの?」


 美砂子は目を見開いた。遊作はその様子を少し、笑う。


「ああ。そうだ。気にするな。独身だ」


 美砂子は困惑した。遊作は美砂子を宥めるように言う。


「美砂子を困らす気はない。じゃあな」

「あの、待って。ありがとう」

「いいや、こちらこそ、連絡先受け取ってくれてありがとう」


 遊作は以前のような爽やかな笑顔だった。美砂子は少しだけ嬉しいように見えた。


「由利亜って言うの。子供の名前」

「ゆりあ。良い名前だな。漢字は?」

「今度。教える」

「本当か?」


 遊作は美砂子にまた会えるのが解ると、表情が明るくなった。


「うん」

「ありがとうな。じゃあな」

「うん」


 美砂子と遊作は別れて、歩き出した。

 美砂子は振り向き、遊作の後姿を見て、微笑む。

 遊作は美砂子の視線に気付いたのか、背を向けながらも、手を振った。

 美砂子はその様子に少しだけ、心が温まるようだった。

 美砂子は先ほどまで、和義と揉めて疲弊していたのが嘘のように元気になっていく。


 私は遊作が嫌いだったが、少しだけ見直した。

 恐らく、遊作はずっと美砂子と由利亜のことを気にかけていたのだろう。

 これから先、どうなるか解らない。けれど、美砂子が最後に笑っていることを私は願うばかりだった。


 美砂子は和義の元に戻る。マンションに戻ると、和義は申し訳なさそうな表情だった。

 玄関の美砂子に対して、頭を下げる。


「ごめん。本当にごめん。どうかしていたと思う。美砂子の友達の文芽さんが犯人なはずないもんな」

「和義」

「俺が悪かった。俺を殴るなりなんなりしてくれ」


 和義は美砂子の前に目をつぶって、顔を出す。美砂子は少し驚く。


「和義。いいよ。もう解ったから」

「でも。俺の気がすまない。だから、何でも言うことを利くよ」

「本当?」


 美砂子は冗談っぽく笑った。和義は美砂子の機嫌が戻ってきたと思い、嬉しくなってきた。

 私は何とか二人の危機を乗り越えたと思った。


「じゃあさ、今度、欲しいバッグあるんだ。今度買ってよ!」


 美砂子は和義に甘えるように言った。


「え~。いくらだよ、値段によるぞ」

「さっき、言うこと利くって言ったじゃん!」

「そうだな。わかったわかった」

「やったー!」


 二人の幸せそうな雰囲気に私は胸をなでおろした。とにかく急を脱したようだ。

 嫌がらせの犯人が解らなくても、二人が幸せにすごせるならそれでいいだろうと思えてきた。

 何事も無く、過ぎていく。でも、それは許されないのだろう。

 由利亜が知ることの出来なかった美砂子の死、これを見届けなくてはいけない。

 美砂子に何があったのか。私は美砂子が病死であることを願った。

 誰かに殺されたとか、事故、最悪な場合の自殺ではないことを願うばかりだ。



トパーズの憂鬱 (下) 3 了

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