タンザナイトの夕暮れ時(下) 7(30) 完

次の日、私は脳外科医に診てもらった。脳の異常もなく、記憶力に関しても異常はなかった。記憶に関してのテストをしたけれど、正常だった。

けれど、声の主が言った思い出がなくなっているという警告はやはり私の心をざわつかせた。


病院での結果を森本に報告した。森本は安心した表情で私を抱きしめ、ゆっくりと離すと、真剣な表情になる。

「俺と結婚してくれないか」

「え?」

「すぐに返事をくれとは言わん。ただリカコのこれからのことを考えると俺、お前の支えになりたい」

森本の言葉は私の心を満たした。森本はいつも私を支えてくれたし、力になってくれた。

もしも、森本がいなかったら私はどうなっていたのだろう。想像するにあまり良くないものに思う。私は黙って森本を抱きめた。

「いいのか?」

「うん。私には家族がいないから。私の家族になってください」

「喜んで」

こうして私は森本と婚約した。

【物に触れると思い出が見える】能力は子供のころの私にとって、厄介なものだった。

私がこの能力を肯定的に思えるようになったのは、思い出を見た人々が少しで報われた瞬間があったからだ。

必ずしも全てが上手く言ったわけではない。

それでも見続けたのは、それが私にできることだからだ。

私は知らぬうちに、この能力で自分自身をも救われていたように思う。

森本は私から身を剥がすと、カバンから指輪を出した。

それを私の指に填めると、その手の甲にゆっくりとキスをした。私は急に恥ずかしくなって手を引っ込めようとするが、森本はその手を握る。

「よろしくな」

「何か恥ずかしい。こちらこそよろしく」




***************************

森本と婚約してから一月が経過した。

あれから私は特に健康に問題もなく、声の主の言っていた「記憶を失っている」というのはあった。

それは両親の記憶だ。私は完全に両親の記憶を失くした。

両親の名前は覚えているが、どんな人たちでどんな風に過ごしていたかを忘れた。

このことを私は森本に話していない。

心配をかけたくないのもあるが、それ以外の記憶や今現在、特に問題が発生していないからだ。

けれど、【物に触れると思い出が見える】能力は完全になくなった。

もう、何に触れても以前のスクリーンに映し出されるような思い出は見えない。

普通の人になったことになんら不便はない。

けれど、少しだけ寂しく思えるのはそれだけ能力と過ごした時間が長かったからだろう。

********************************

2021年の1月になり、正月気分も抜けたころだった。

川本宝飾店のある商店街で大規模な火災があった。消防が駆けつけ、火は止められた。

幾人かの被害者が出たが、幸い川本宝飾店は何も問題なかった。

念のため、数日間、休業した後、営業を再開した際のことだ。


「川本さん。お久しぶり」

「お久しぶりです。御子柴みこしばさん」

常連客の御子柴は50代くらいのマダムで、この商店街にいくつもの飲食店を構えている実業家だ。

髪の毛を金髪に染め上げ、お洒落な婦人なのが特徴の女性。

「川本さん、聞いた?」

「え?何をですか?」

「消防士の方の話だよ。勇敢ですごくカッコイイ人がいたんだって。その人のおかげで被害が最小で済んだらしいのよ。実はね、娘がその人のおかげで助かってね」

私は不意に藤川諒ふじかわりょうの姿が思い浮かんだ。諒は消防士だ。私はこの消防士が諒じゃないかと確信した。

「そうだったんですか。それはまた凄い。なるほど。その人もご無事だったんですか?」

「勿論。娘と一緒に。本当に命の恩人で。あと、警察から感謝状もらったらしいのよ」

「そうなんですね」

「ねぇ。前に聞いたことがあるんだけど、その消防士って、ここに来たことあるの??」

「え?」

やはり私の予測は的中した。カッコよくて勇敢な消防士は藤川諒だったらしい。

諒と井川は一体、どうなったのだろう。私はその後の二人を知らない。

「ああ、えーと。来たことありますよ」

「へぇ。どんな人だったの?」

「そうですね。とてもカッコよくて性格もお優しい人でした。付き合いしている人がいるらしくって」

「あらー。残念。私の娘の結婚相手にしようと思っていたのに」

御子柴は楽しそうにした。

御子柴の他愛ない話は私にとって少しだけ癒しを与えた。

私は御子柴にお茶を出す。御子柴は「ありがとう」と言ってそれを飲んだ。

御子柴はスマートフォンを取り出して着信を確認した。

「川本さんはもう、思い出を見ることはしないの?」

「ああ。そうですね。正確にはもう、見えないのです。ごめんなさい」

「いえ。いいの。ただ、以前に比べて大分顔色が良くなった気がしてね」

「そうですか?ありがとうございます」

「いい人ができたというのもあるかな。さて、私はもう行かないと」

「今日はありがとうございました。タンザナイトのネックレスのご購入ありがとうございます」

「そうなの。私にとって誇り高い人に贈るためのものなの」

御子柴は美しい笑顔で言った。私は御子柴が誰に贈るのかわからない。

けれど、御子柴の表情は穏やかだった。

「御子柴様。流石です。宝石言葉をご存知なんですね」

「伊達に宝石買ってませんからね」

「左様でございますか」

御子柴は私を見て優しく笑う。私は釣られて笑う。

御子柴は颯爽とコートを着る。その姿は淑女という言葉が相応しく見えた。

御子柴はカバンを手に取ると、私を見た。

「さて、行きますね。あ。そうそう。これをあなたに」

「え?どうして。これはさっき」

御子柴は先ほど、購入してくれたタンザナイトのネックレスが入った箱を渡してきた。

「私はあなたにこれを渡すつもりで買いました。覚えていない?この商店街であなたの売り上げを持って逃げた若者のこと」

「え?ああ。あれはあの青年にやり直すチャンスを与えたかったんです。彼は過ちを犯してしまい、それを悔いて償っています。だから、そんな人にはもう一度、チャンスをと思うったのです。確かに彼は私の店の売り上げを持ち逃げしようとしました。でも、彼はその売り上げを返してくれたので」

御子柴は美しく笑った。御子柴は私に手を差し出した。私はその手を握る。

「あのコはね。私のおいっ子なの」

「え?」

「そうね。甥っ子の梨本なしもと隆史たかふみ(トパーズの憂鬱(上)5)は幼いころに両親を亡くして私のとこにいたの。でも、家出していたのよ。不良グループにいたみたいで。覚せい剤やって摘発された後、行方が分からなくなって。だけどね、あなたに会った後、私のところに戻ってきたのよ。「すごくやさしい人がいた」って。話を聞いてみると、川本宝飾店の川本さんだって。隆史はあれから真面目になってね。ずっと言おうと思っていたのよ。甥の隆史が大変ご迷惑をおかけしました」

御子柴は丁寧に私に頭を下げる。そういえば、御子柴がこの川本宝飾店に来るようになったのはあの件以来だったと思う。

記憶がぼんやりとしているのは、私自身が思い出を忘れかけているからだろうか。

「頭をあげてください。隆史さんが更生して元気でやれているならそれでいいのです」

「本当に川本さんのおかげよ。だから、これ、受け取って頂戴」

「わかりました。ありがとうございます」

「どういたしまして。私はずっと、川本さんの幸せを応援していますよ。では行きますね」

「はい。では、またありがとうございました!」

私は店を出て行く、御子柴を見守った。彼女の姿が見えなくなると、私は先ほど貰ったタンザナイトのネックレスの入った箱を鞄にしまう。

私と関わった人が少しでも良い方向に向かっているのなら、やってきたことは無意味じゃなかったんだ。


梨本はもう一度、やり直せた。

私にできることは過去を見て、その人たちの手助けをすることだった。

今はもう、【物に触れると過去が見える】能力はない。


能力の喪失にはまだ慣れていないし、違和感のほうが断然ある。

でも、不必要に思い出を見れていた状態のほうが本当は不自然だ。

けれど、それが普通だったからこそ、自然になっていたのだろう。

過去は変えられるものじゃない。だからこそ、私にできることはその真実を見て伝え、最良の方向にいけるようにするだけだった。

全てが良い結果に終わるわけじゃない。

ただここに来てよい方向に物事が進んでいったのなら、私の能力は決して無駄なものじゃなかったのだろう。

私は目を伏せてゆっくりと深呼吸をした。時計の秒針が刻む音が大きく聞こえてきたとき時刻はいつの間にか夕暮れ時になっていた。

丁度、タンザナイトの色のようだった。店の扉を開けるお客さんがいた。

私はそのお客さんに笑顔で挨拶をする。


「いらっしゃいませ。川本宝飾店へようこそ」


そのお客さんは私を見て笑った。



プロビデンスは見ていた 完

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プロビデンスは見ていた 深月珂冶 @kai_fukaduki

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