アメジストの涙(中)1
私は寝不足のまま、次の日を向かえた。
学校に行くと、クラスの様子が可笑しかった。 教室に入った途端、違和感を覚えた。
ひそひそと話し声が聞こえてくる。
「江波さんって虐待されているの?」
「うそ。マジで?」
「可哀相だね」
「でも。優等生すぎて苦手だったから、ちょっと、ざまって感じ」
「うわぁ。最低」
「何、言ってんの?江波さんがクラス仕切っているの気に入らんとか言っていたじゃん!」
どうやら、私たちが江波の虐待を通告したことは広まっていたらしい。
漏れたのは、江波の家の近所の生徒からだろう。 誰かが情報を漏らしたのだろうと予想が着く。
私は教室のドアに触れる。ゆっくりと、思い出は見えてきた。
見たくはないが、私には責任がある。
江波の家庭事情を見て、その虐待を通告したからだ。
だから、確認しなくてはいけない。
ゆっくりと映画館のスクリーンのように映し出されたのは、
隣のクラスの男子がうちのクラスにやってきている場面だ。
その男子は江波の虐待を言い触らしている。
「ビッグニュース!お前たちのクラスメイトの
「おい、マジかそれ!うわぁ」
それを聞いた男子たちは面白がる。
「だから、休んでいたのか。そういえば、たまに腕とか傷あったよな」
「マジで!それ、やっば」
私は嫌な気分になってきた。私は咄嗟に笹山の姿を探す。笹山の姿も見えた。
笹山はあまりにも酷い情報に、言葉を失っているようだ。
笹山はどうしたらいいのか解らず、黙り込んでいる。
笹山に女子生徒が話しかけてくる。
「笹山さんは知っていた?」
笹山は首を横に振る。笹山は言う。
「虐待って本当なの?」
「だって、さっきの
女子生徒はなんでもないように言った。
「そうなんだ」
笹山は同時に自分に相談してくれなかったことがショックだったようだ。
女子生徒は面白そうにしている。
普段から【江波】を慕っていたクラスの女子生徒までもが、この状況を面白がっているように見えて、私は嫌な気分になった。
私は教室のドアから手を離す。
思い出は見えなくなった。
私は普段から、あまり物に触れないようにしていた。
学校の物は特に触れないようにしている。
触れないようにするのが難しいが、見えても嫌な思いをすることが多い。
誰かの悪口だったり、誰かの嫌な面を絶対に見ることになるからだ。
私はため息をつく。
笹山が私に近づき、話しかけてくる。その様子は落ち着きがなく、救いを求めているように見えた。
「ねぇ、昨日、梨々香の家に行ったよね?」
「うん。行ったよ」
「そう。あのさ、虐待って本当?」
「……本当だよ」
笹山は目から涙を流す。にわかに信じられないようだ。
「そう……。どうして、それは解ったの?」
「……どうしてって」
私は自分が【物に触れると過去が見える】能力を話すべきか迷う。
話してどうなるのだろうか。話さないことにする。
「あの。この前、江波さんの腕に
「……そうなの。確かに梨々香は腕とか傷があったりした。虐待だったなんて」
笹山は涙を流し、嗚咽した。 私は笹山の肩を優しく触れた。
思い出は容赦なく、再び見えてくる。
物に触れると見えるはずと思ったが、どうやら、笹山の服に触れたことで見えてきているようだ。服は物だからか。 つくづく、私は自分の能力に嫌気が差す。
ゆっくりと見えてきたのは、笹山が江波を心配して手紙を書いている場面だった。
何をどういう風に書いたらいいか解らず、何度も書き直している。
書いてくしゃくしゃにし、ゴミ箱へ。 執筆中の小説家のように迷っていた。
笹山は本当に、江波のことを大事にしていることが解った。
私はその思いを守りたいと思った。
思い出はそこで見えなくなった。
私は笹山から手を離す。
「大丈夫?笹山さん?」
「ありがとう。私、これからどうしたらいいんだろう」
「私たちに出来ることは少ないかもしれない。とにかく、江波さんのことを支えていこう」
私は笹山を元気付けるように言った。笹山は私を見る。その表情は不思議そうに思っている。
「何か、川本さんのこと少し誤解していた。人嫌いで、冷めた人だと思ってた。ごめん」
「……いいよ。冷めていたのは事実だし。それに私は優しくないよ。面倒なことに巻き込まれたくないってこれまで思っていたから」
私は面倒なこと、嫌なもの、不愉快なものを見たくなかった。だからこそ、家族以外の人との関係を
今回だって最初は面倒くさいと思っていた。けれど、目の前で大変なことになっている人を見過ごすわけにはいかないと思ったからだ。
「……そうなの。でも、梨々香のことは?」
「見てしまったから。江波さん家の事情を知ってしまったから。本当に見過ごしていいのかって思った。だから」
私は思ったことを言った。
「……すごい。私には出来ないかな」
笹山は私に関心した。関心されるほど、私はよくできた人間じゃない。
「でも、笹山さんは本当に江波さんのことが大事だっていうのが凄く伝わってくるよ」
「そ、そんなことないよ」
笹山は照れていた。笹山が羨ましく思えた。大切にしたいと思える友達がいることは、何事にも変え難いことに思える。
「あ、そうだ。江波さんは今日、来ている?」
「まだ来ていないよ。休みじゃないと思うけど」
「そう。無事だといいけど」
「そうだね」
教室がざわつき始める。 他のクラスメイトが窓の上から何かを見始めた。
どうやら、江波が学校に登校してくるようだ。
江波は一人で学校に来たらしい。その様子は少しだけ暗く見えた。
目立った傷はない。
江波は皆が自分を見ていることに気づくと、皆に向かって「おはよう」と言い、いつもの笑顔を見せた。
私はその笑顔が痛く思えた。無理をしている。
通告を受けた後、江波の父親はどんな様子だったのだろうか。
江波が教室に入ってくると、江波を慕っている女子生徒が近づく。
「梨々香ちゃん、大丈夫?心配したんだよ」
「あ。うんうん。なんともないよ」
江波は笑顔で否定した。女子生徒は安心する。
私はその女子生徒が、江波のことを面白がっているのを聞いた。
複雑な思いで、そのやり取りを見る。
視線に気づいた江波が、私の元に来た。
真っ先に江波が私の元に来たのを、クラスの生徒は不思議そうに見る。
私はその視線に居心地の悪さを感じた。
「川本さん。ちょっと、いい?」
「あ。うん」
江波は私の手を掴んむ。江波は私の手を引きながら、教室を出た。
江波に連れられ、学校の屋上に着く。
「時間大丈夫?」
「すぐ済むから」
江波は学校の屋上の椅子に座るように促してきた。私は座る。
その隣に江波が座った。
「とりあえず、ネックレス。ありがとうね」
「あ。うん。こっちもバッチありがとう」
江波はネックレスのお礼を言ってきた。
その様子に可笑しさはない。私は江波を見る。
「通告って川本さん?」
「……うん。ごめんなさい。余計なお世話だったかな」
私は江波に頭を下げる。
「そう。いいや、いいの。ありがとう」
江波は私が通告したことに怒っている様子でもなかった。私は少し安心する。
「気づいたんだよね?痣見えていたし。お父さんがあんなんだし」
私は江波の言葉に首を縦に振る。江波は私を見た。
「お父さん、昔からそうだったんだ」
私は黙って江波の話を聞く。江波の表情は何かを諦めているようだった。
「自分の思い通りに成らないと殴る蹴る。そんなの。外面ばっか。家に居ると息が詰まる。何度か死のうと考えたこともある」
私は江波の話に苦しくなった。子供は親を選べない。
親による子供への過度の期待は、時として虐待を引き起こす。
江波は黙り込んだ。私は江波を見る。
「私、正直、江波さんのことを憧れていたよ。社交的だし、真面目だから」
「そう。ありがとう。でも、虐待のことを知った皆に会うのが怖かったよ。本当は面白がっているんじゃないかって」
江波は涙を流す。私は先ほどまでのことを知っている。苦しくなってきた。
「大丈夫だよ。江波さんを笹山さんは本当に心配していたよ。私も」
「ありがとう」
江波は涙を流した。私は江波の肩にそっと触れる。江波の服から何も見えないことを願った。見えるなと願う。
幸い、見えることは無かった。安心する。
「どうしたの?」
江波が私を見た。
「ん?なんでもない。私も色々あって」
「そうか。川本さんが何を抱えているか解らない。けど、川本さんはもっと心を開いたほうがいいと思う」
「心……か。開けるかな。解らないや」
私は【物に触れると思い出が見える】能力がある限り、家族以外に心を開けるのだろうか。疑問に思った。とても奇妙で、気味の悪い能力だと自分で思うからだ。
「どうして、そう思うの?」
「……うーん。説明し辛いというか」
「説明し辛いか。そっか。じゃあ、話す気になったら、教えてよ」
「うん」
江波は私の前に、自身の手を差し伸べてくる。私はその手を取った。
私と江波は握手を交わした。 学校のチャイムが鳴る。
「あ。ホームルーム始まるね!行かないと」
私はそのまま、江波の手を取って行こうとする。江波は首を横に振る。
「少し遅れて行かない?」
「いいの?遅刻なっちゃうよ」
「いいよ。だって先生もわかってくれるよ」
その日、私と江波はホームルームが終わってから教室に入った。
担任の水山は注意してきた。
けれど、その注意は何処と無く江波が何事もなかったことを安心しているようにも見えた。
水山も、江波の虐待のことを聞いているのだろう。
私はこのまま、江波が無事であることを願った。
その願いは儚くも崩れていく。
私はその時は知りもしなかった。
それから江波は特に異常はなかった。
ある時、江波は児童相談員が来た後のことを話してくれた。
「児童相談員が来た次の日、お父さんは自分のやったことを多少、反省したみたい」
「そうなんだ」
私はにわかに信じられなかった。江波の父親がそんなに物分りが良いようにも思えなかったからだ。けれど理解したのだろう。
「でね。その後、私、お母さんと一緒に市内にあるお母さんの実家に引っ越すことになったの」
「そうか。それは良かったよ」
江波の顔色の良さは不安なことがなくなったからなのだろう。
私は江波の笑顔に安心した。
父親からの呪縛に解き放たれた江波はこれから、素晴らしい未来が待っているだろうと私はその時、思った。
「でね。お母さんはお父さんに離婚届出したよ。お父さんは中々、判子押さないみたいだけど」
江波は遠い目をしていた。
「そうなんだ」
「お父さんは仕事に関しては尊敬できた。けど、人間としては。多分、【バツイチ】になりたくないから判子を押さないのだと思う」
「そう」
江波が父親を語る姿は、寂しそうだった。自分の父親には間違いない。
けれど、自分を破滅する存在。江波の心の中はきっと複雑だ。
家族という絆、愛憎が渦巻いているのだろう。
「だから、別居ということかな」
「そう。私は江波さんが元気そうで良かったよ」
「ありがとう」
江波は再び、私に手を差し伸べた。私はその手を取り、握手した。
暖かい手から、何かを渡してきた。私は手の中を見る。
「何。これ?」
「あげる」
江波は私にビーズで出たマリーゴールドのバッチだった。
それに触れた途端、思い出が見えてくる。
私は恐る恐る、見えてきたものを受け入れるしかなかった。
アメジストの涙 (中) 1 (了)
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