タンザナイトの夕暮れ時(下) 2(25)

私は息を吸い、口を開ける。緊張が走った。

「井川さんが藤川さんとの結婚を拒む理由ですが、それは藤川さんのお父様に原因があります」

「え?」

「お伝えするのが非常に心苦しかったのですが」

「どういうことですか?」

諒は動揺している。思い出を見ていた時、諒は非常に両親を尊敬していたように見えた。

両親も諒を立派な息子に思っていたようだった。

「申し上げにくいのですが、藤川さんのお父様、善郎よしろうさんは大学生のころ、井川さんのお母様の里衣子りいこさんの弟、与一よいちさんをひき逃げしました。ひき逃げが明らかになっても否認し続け、裁判で負けて懲役を食らい賠償金を払いました。それでも自分の社会的地位を守る為に、今度は里衣子さんたちを逆に訴えたのです」

「え。何かの間違いじゃないのですか?」

「間違いではないです。藤川さんのお父様、善朗よしろうさんは大学生のころ、井川さんのお母様の里衣子りいこさんの弟の与一よいちさんをひき逃げしました。それも明らかにひき逃げが解っても否認し続け、裁判で負けて懲役を食らい賠償金を払いました。それでも自分の社会的地位守るために、今度は里衣子さんたちを逆に訴えたのです」

「え。何かの間違いじゃないのですか。父さんが」

諒の落ち込み具合は激しかった。

諒にとっての父親、善朗は尊敬する人の一人だったのだろう。それが手に取るように解り苦々しくなってくる。

「裁判は長続き、善朗さんは和解の条件に、「今後、ひき逃げの話は口外しない」ことを約束させました。里衣子さんたちはこれ以上の関わりを持ちたくないため、合意しました」

「そうですか」

私は諒に話しかける言葉が見つからない。どんな言葉を掛ければいいのだろうか。

解らない。諒は静かに涙を流し始める。私はティッシュを差し出す。諒はそれを黙って受け取った。

「井川さんはそれを藤川さんに知られたくなかったのでしょう。藤川さんが善朗さんを尊敬していることを知っていたから」

「………」

「藤川さん。大丈夫ですか?」

「……俺は。俺はどうしたらいいんでしょうか」

「……そうですね。藤川さんの気持ち次第じゃないでしょうか」

諒は声を抑えて涙を流す。涙をこらえることすらできなくなっていただろう。

諒は見た目と違いかなり繊細だ。それは思い出を見てきた様子と、ここに来たときの印象だ。

「とりあえず、川本さん。ありがとうございます」

「いいえ。私にできることはこれくらいしかないので」

「十分です。あの、また何かあったら思い出を見てもらうことはできますか?」

「すいません。私はもう、思い出を見ません。というより、思い出を見ることができなくなったのです」

私は自分でその言葉をかみ締めるように言った。私はもう思い出をみることができない。

【物に触れると思い出が見える】。こんな奇妙な能力とのお別れはあっけないものだと思った。

それと同時にもう自身の思い出を失くすことはないと思うと、安心している自分がいた。

「そうですか。それはまた急ですね」

「はい。よく解りません。ずっと子供のころから見えていたもので。見たくなくても見てたそれらはもう見えないのです」

「なんだか川本さん。スッキリしたように見えます」

「恐らくはもう思い出に振り回されることがないからでしょう」

「そうですか。川本さんにとってのその能力はどんなものだったんですか?」

「どんな。そうですね。良いものか悪いものか。解らないです。この能力でよかったこともあったのも事実です。ただ私には荷が重かったんです」

「過去が見えるということがどんな風か全然想像つかないです。でも、辛いんだろうなとだけは思います」

諒は私を労うように言った。諒に突きつけらた現実は辛いものだ。そんな状況なのに人を思いやる精神に尊さを感じた。

「ありがとうございます」

「いえ。俺は川本さんのおかげで知れたので良かったです」

「それは良かったです」

「俺、川本さんのご厚意に応えるように頑張ります」

諒は少し痛々しく笑う。その様子は知る前のものよりも深く傷ついたものに見えて、心苦しくなった。

このまま、諒は誤った方向に行ってしまうのではないかとすら思えた。

諒は店を出て行った。

時刻は午後の三時すぎだった。この時間は本当にお客さんの入りがない。私は店を閉めることにした。


****************************


店の閉店作業を終えて、私は森本に電話をかける。森本は数回の呼び出しで出た。

【おう。あれ、仕事もう終わり?】

「うん。何時にこっちに来れそう?」

【うーん。あと、二時間くらいかな】

「そう。解った」

【何か元気ない感じだけど、どうした?】

森本は私の微かな様子でも解るらしい。

森本は本当に私を心から心配しているように思えた。

それが解り私は嬉しくなった。森本に早く会いたい気持ちと、思い出が見えなくなった私をどう思うのか不安がせめぎあった。

「何でもないよ。ヒカルには言わないといけないことがあるから」

【言わないといけないことか。すごい気になるけど、楽しみにしておく】

電話を終えると、私は少しだけため息をつく。なぜ、【物に触れると思い出が見える】

能力はほぼ消えたのか。原因がわからない。


私自身が思い出を失くしたくないために自らが見えなくしたのか。

見えていたものが見えない。

その事実をどう受け入れていくのか。目の前が真っ暗になり、何も見えなくなった。


タンザナイトの夕暮れ時(下) 2(25) 了


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