タンザナイトの夕暮れ時(下) 2(25)
私は息を吸い、口を開ける。緊張が走った。
「井川さんが藤川さんとの結婚を拒む理由ですが、それは藤川さんのお父様に原因があります」
「え?」
「お伝えするのが非常に心苦しかったのですが」
「どういうことですか?」
諒は動揺している。思い出を見ていた時、諒は非常に両親を尊敬していたように見えた。
両親も諒を立派な息子に思っていたようだった。
「申し上げにくいのですが、藤川さんのお父様、
「え。何かの間違いじゃないのですか?」
「間違いではないです。藤川さんのお父様、
「え。何かの間違いじゃないのですか。父さんが」
諒の落ち込み具合は激しかった。
諒にとっての父親、善朗は尊敬する人の一人だったのだろう。それが手に取るように解り苦々しくなってくる。
「裁判は長続き、善朗さんは和解の条件に、「今後、ひき逃げの話は口外しない」ことを約束させました。里衣子さんたちはこれ以上の関わりを持ちたくないため、合意しました」
「そうですか」
私は諒に話しかける言葉が見つからない。どんな言葉を掛ければいいのだろうか。
解らない。諒は静かに涙を流し始める。私はティッシュを差し出す。諒はそれを黙って受け取った。
「井川さんはそれを藤川さんに知られたくなかったのでしょう。藤川さんが善朗さんを尊敬していることを知っていたから」
「………」
「藤川さん。大丈夫ですか?」
「……俺は。俺はどうしたらいいんでしょうか」
「……そうですね。藤川さんの気持ち次第じゃないでしょうか」
諒は声を抑えて涙を流す。涙をこらえることすらできなくなっていただろう。
諒は見た目と違いかなり繊細だ。それは思い出を見てきた様子と、ここに来たときの印象だ。
「とりあえず、川本さん。ありがとうございます」
「いいえ。私にできることはこれくらいしかないので」
「十分です。あの、また何かあったら思い出を見てもらうことはできますか?」
「すいません。私はもう、思い出を見ません。というより、思い出を見ることができなくなったのです」
私は自分でその言葉をかみ締めるように言った。私はもう思い出をみることができない。
【物に触れると思い出が見える】。こんな奇妙な能力とのお別れはあっけないものだと思った。
それと同時にもう自身の思い出を失くすことはないと思うと、安心している自分がいた。
「そうですか。それはまた急ですね」
「はい。よく解りません。ずっと子供のころから見えていたもので。見たくなくても見てたそれらはもう見えないのです」
「なんだか川本さん。スッキリしたように見えます」
「恐らくはもう思い出に振り回されることがないからでしょう」
「そうですか。川本さんにとってのその能力はどんなものだったんですか?」
「どんな。そうですね。良いものか悪いものか。解らないです。この能力でよかったこともあったのも事実です。ただ私には荷が重かったんです」
「過去が見えるということがどんな風か全然想像つかないです。でも、辛いんだろうなとだけは思います」
諒は私を労うように言った。諒に突きつけらた現実は辛いものだ。そんな状況なのに人を思いやる精神に尊さを感じた。
「ありがとうございます」
「いえ。俺は川本さんのおかげで知れたので良かったです」
「それは良かったです」
「俺、川本さんのご厚意に応えるように頑張ります」
諒は少し痛々しく笑う。その様子は知る前のものよりも深く傷ついたものに見えて、心苦しくなった。
このまま、諒は誤った方向に行ってしまうのではないかとすら思えた。
諒は店を出て行った。
時刻は午後の三時すぎだった。この時間は本当にお客さんの入りがない。私は店を閉めることにした。
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店の閉店作業を終えて、私は森本に電話をかける。森本は数回の呼び出しで出た。
【おう。あれ、仕事もう終わり?】
「うん。何時にこっちに来れそう?」
【うーん。あと、二時間くらいかな】
「そう。解った」
【何か元気ない感じだけど、どうした?】
森本は私の微かな様子でも解るらしい。
森本は本当に私を心から心配しているように思えた。
それが解り私は嬉しくなった。森本に早く会いたい気持ちと、思い出が見えなくなった私をどう思うのか不安がせめぎあった。
「何でもないよ。ヒカルには言わないといけないことがあるから」
【言わないといけないことか。すごい気になるけど、楽しみにしておく】
電話を終えると、私は少しだけため息をつく。なぜ、【物に触れると思い出が見える】
能力はほぼ消えたのか。原因がわからない。
私自身が思い出を失くしたくないために自らが見えなくしたのか。
見えていたものが見えない。
その事実をどう受け入れていくのか。目の前が真っ暗になり、何も見えなくなった。
タンザナイトの夕暮れ時(下) 2(25) 了
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