タンザナイトの夕暮れ時(中) 5(16)
あの記者の名前は
けれど、2年前の2018年の夏、稲崎の親友の
弓削がクラブで知り合い一夜を共にした女性、
その容疑が弓削に掛けられたらしい。幸い、犯人は逮捕されたが、弓削は自殺。
それから森本は稲崎の関係は悪化したらしい。稲崎は
「そんなことがあったんだね」
「ああ、まあ。俺も何もできなかったからな。今でも結構キツい出来事だ。稲崎は悪い奴じゃない。稲崎は俺を憎んでいいいんだ」
森本は少しだけ震えていた。
私はこの事件を担当していないが、関与していたらそんなことは起こらなかったのだろうか。私は森本の右手を両手で暖める。
「ヒカルは悪くないよ」
「………ありがとう」
「お茶を飲む時間ある?お茶入れるよ」
「あ。ごめん。行かないと、じゃあ。また連絡する」
森本は
新たな森本の一面を知った気がする。森本は余程のことがない限り動揺もしない、震えることもない。それなのに震えていた。
それだけ森本にとって大きな事件だったのだろう。私は森本の手のぬくもりを握りしめて、店の中に入った。
*************************
開店の準備を始める。私は森本のことを考えていた。
以前、森本が私に話してくれたことがある。私を好きになった理由に、学生時代に森本の容疑を晴らしたらしい。
だからこそ、誤認逮捕や冤罪に対しての思いが強いようにも見えた。
森本一人が、それに対して意見を述べたとしてもどうにもならないのだろう。
その苦しさは計り知れない。私がそんなことを思っていると、店の電話が鳴る。
電話の主は
「潔叔父さん。おはようございます」
【リカコちゃんか。久しぶり。今年ももう終わってしまうね】
「そうですね。おじさんのところはどうですか?」
潔叔父さんは元気そうだった。叔父さんのご家族は元気だろうか。
【ああ。変わりないよ。リカコちゃんは?】
「変わったこと?そうですね」
私は祖母について聞こうと思った。口を再び開こうとした時だった。
【12月のこの時期になるとね、母親のことを思い出すよ】
「え?」
【リカコちゃんのおばあちゃんね。僕たちの母親。
「潔叔父さん。私」
【母はね、最終的に記憶を失くしてしまったんだ。アルツハイマー型認知症というものなってね。僕が27歳の時で、母はその時、58歳だった。アルツハイマー型認知症と診断されてからひと月もしない内に亡くなったんだ】
私は何も言えなくなった。
確実にこの能力には欠陥があることが証明されたのだから。何も言えないのは言葉が出ないだけで、不思議と受け入れられた。
「そうだったんですね」
【ああ。だから。リカコちゃんもそういう症状があったら、教えてほしい。僕たちにできることをやるからね】
「潔叔父さん。ありがとう。実は私も記憶を喪失しているの。大切だった高校時代の親友の記憶を失くしているの」
【それは本当かな?】
「うん。確実だった。全く思い出せない。そんな人がいたなとは解るんだけど。私はこのまま、私と関わった人のことも忘れていくのかな」
私は震えが起きる。記憶を失うことはやはり、恐い。抗えないような恐怖が体を取り巻いているように見える。
【そうか。リカコちゃんもか。母は日記に残していたんだ。リカコちゃんと同様に、記憶を失うようになっていた。何歳くらいから記憶が亡くなるようになったのかは解らない】
記憶を失うことは私が私でなくなる気がした。祖母の姫美子も同じような不安を抱えていたのだろうか、
「能力の衰退なのか。長く思い出を見すぎた代償なんだと思う。正確なことは全くわからないの」
【リカコちゃんは同じように過去が見える人間に会ったことがあるのかな?】
「私と同じように過去が見える人に会ったことあるよ。でも、その人は私と違って触っただけで過去が見えるくらいの強烈な能力の持ち主だったよ」
【そうか】
潔叔父さんはかなり驚いていた様子だった。
能力者と容易に出会うことなど、めったにない。何かのくじで大当たりを当てるくらいのものだ。
「とにかく、記憶がなくなっても私はそれを受け入れるよ」
【何か困ったことがあったら、遠慮なく言うんだよ】
潔叔父さんは本当に心配してくれている。
それだけでも少しだけ心強い気がした。記憶を失うことはかなりのことだろう。
数多くの思い出を見てきた私はあと、どのくらい自身の記憶を残しておけるのだろうか。
記憶を失っても私が私であったことを憶えておきたいと思った。
その為に何ができるか解らない。
私にできることは依頼された思い出を見ることなのだろう。それが私の役目であり、私自身がやってきたことなのだから。
タンザナイトの夕暮れ時(中) 5(16) 了
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