トパーズの憂鬱 (中) 12


 美砂子のお腹は目に見えて大きくなっていた。叶井遊作には妊娠を伝えたのか。

 美砂子の表情に暗さはない。私はひとまず、安心した。


 美砂子が電話を架けている。


「和義?」


 美砂子と和義が別れていないようだ。二重に嬉しくなった。

 二人の間にどのような話し合いがあったのだろうか。

 美砂子は電話を終えた。季節は初夏のようだ。


 買い物をするために、街を歩いている。知った顔を見つけたのか、美砂子の顔は曇る。


 その人物が近づいているようにも見えた。とうとう、美砂子の前にその人物が現れる。


「美砂子」

「今更、何?」


 その人物は、叶井遊作だった。美砂子は睨み付けると、遊作をすり抜けようとする。

 遊作は美砂子の手を掴む。


「俺の子って本当?」

「何、それ。冗談じゃない?」

「でも、新しい彼とじゃ、辻褄が合わない」


 美砂子は黙る。息を飲んだ。


「そうだね。だとしても、あなたに責任執ってもらう気はない。もう恋人でも、仕事仲間でもないから」


 美砂子は手を払う。美砂子の気迫は凄かった。遊作は美砂子を見つめる。遊作は頭を下げた。

 遊作は「本当にごめん。俺、認知はする」 と言いながら、美砂子の手を再び掴む。


 美砂子は遊作の手を払う。


「謝らないで。この子がまるで間違って生まれてくるみたいじゃない。認知はしないでいい。だったら、もう私の前に現れないで!」


 美砂子は声を荒げた。遊作は美砂子の気迫に怯む。


「ご、ごめん。解った。ただ、これまでのことはすまなかった」


 遊作は再び頭を下げた。


 美砂子は遊作に背を向けて、自分の向かう方向へ行く。私は美砂子を心から応援したくなった。

 母親になる決意をした美砂子の思いは気高く強い。颯爽さっそうと歩く姿は戦士のように見えた。


 美砂子は立ち止まると、ため息をつく。少しだけ美砂子は震えているように見えた。

 勇気のいることだったかもしれない。


 美砂子は鞄から折り畳み式携帯を取り出した。電話番号を押し、文芽に電話を架ける。


 思い出は再び、切り替わった。



 ゆっくりと見えてきた思い出は、美砂子が病院で眠っている場面だった。

 無事に由利亜を出産したのだろうか。


 美砂子に文芽が訪ねてきていた。文芽は安心した様子で美砂子を見る。

 しばらくして、美砂子が目を覚ます。


 文芽が「おはよう」と、美砂子に呼び掛ける。美砂子は笑う。


「ありがとう」

「女の子だよ。3245gだって」


 文芽が言った。美砂子の親は、出産に立ち合わなかったのか。

 美砂子は天井を見る。


「これから頑張らないと」

「そうだね。何か私が出来ることあったら言ってね」


 美砂子は文芽の方に顔を向け、「ありがとう。友達でいてくれるだけで本当に」と言い、手を握った。


「お金は大丈夫なの?」


 文芽が心配した。


「何とかね。父親が言えないなら、勘当だって。親子の縁切る代わりにお金くれた。あとは、高校卒業から二年間結構、貯金してたからそれで」


 美砂子は少し辛そうだった。文芽は手を握る力を込める。


「そう。でも、何かあったら言ってね」


 文芽は力強く言った。和義はどうしているのだろうか。文芽は聞き辛そうに言う。


「和義くんは?」

「和義?和義は就職したんだって。で、仕事慣れたら結婚しようだって」


 美砂子は照れ臭そうに言った。


「やったじゃん!」

 

 文芽は美砂子の幸せそうな顔に満足した。


「そうだ。名前、決まっているの?」


 文芽は美砂子の顔を覗き込んだ。


「名前か。由利亜ゆりあにしたの。よし利益利益の利、は次の世代を次ぐという意味を持つ亜。本当は百合亜が良かったけど。百合だと、ありきたりかなと思ってね。由利亜は良いことを次いでいってほしい」


 美砂子はゆっくりと言った。文芽が笑う。

 名前には意味があるのだろう。私は美砂子の由利亜への母親としての愛情が美しく思えた。


「美砂子らしいね」

「らしいか。ありがとう」


 私は暖かい空気に心が和らいだ。このまま、暖かい思い出に浸っていたい。

 しかし、それは叶わない願いだ。



 思い出は再び切り替わる。


 ゆっくりと切り替わった場面は、美砂子がベビーカーで由利亜を連れているところだった。

 由利亜は本当に小さく、退院して一月ひとつきも経過していないように見えた。


 生まれたのは9月だろう。妊娠したのが2000年11月。そこから十月十日で考えてもそれくらいだ。

 だから恐らくは2001年9月半ばだろう。


 9月と言っても暑い日がある。美砂子は帽子を被り、汗を掻いている。

 美砂子の後ろを不審に着いてくる人が見えた。私は嫌な予感がする。


 後ろをついてくる人の顔は見えない。ただ女性ということが解る。私は澤地だと思った。

 美砂子がベビーカーを押し、信号待ちをしている。その時だった。美砂子を押し、ベビーカーが車道に出た。


 美砂子が叫ぶ。間に合わない。

 

 もうダメかと思った。


 しかし、間一髪で男性が由利亜を抱えて転がる。


 車の運転手が「バカヤロー危ないじゃないか!」と言い、男性が「すいません」と言った。

 車は走り去り、男性は由利亜を抱き抱えたまま、美砂子の元に連れていく。

 美砂子を押した犯人は、「っち」と舌打ちをして、その場を走っていった。


「危なかったですね」

「すいません。本当にありがとうございます」


 美砂子は由利亜を抱き上げ、男性に深く頭を下げた。

 男性の顔を見て、私は驚きを隠せなかった。


 それは元担任の水山恭一みずやまきょういちだった。若くて頼りないけれど、水山に違いなかった。水山が言う。


「信号待ちしてるとき、あまり前に行かないほうがいいですよ」

「そうですね。すいません。本当にありがとうございます」


 美砂子は泣きそうな顔になっていた。水山は由利亜に目線を合わせる。


「じゃあ、これで。元気で大きくなるんだぞ」


 水山は由利亜に呼び掛け、由利亜は笑う。美砂子はその様子に癒されたようだ。


 ひとまず美砂子と由利亜に怪我がないことに安心した。

 水山が立ち去った後、美砂子は少し壊れたベビーカーに由利亜を乗せる。

 美砂子は少しだけ震えていた。死を意識せざる終えない瞬間に出会えば誰でもそうなるだろう。

 タイミング良く携帯電話が鳴る。


「和義?」

【買い物、無事に終わった?】


 電話の相手は和義らしい。美砂子は和義の声を聞き、安心していく。


「和義。電話ありがとう」

【え?なに?どうしたの?】

「うん。帰ってから話すよ」

【何だよ】


 美砂子と和義は無事に結婚し、一緒に暮らしているらしかった。和義の両親は反対しなかったのだろうか。

 細かいことはわからないが、二人が無事に結婚出来て良かった。


 私は後ろを押したのが、澤地さわじ亮子りょうこだと思った。

 理由は叶井かない遊作ゆうさくの子供が、由利亜だからだ。逆恨みしての行為。 それ以外に考えられなかった。



トパーズの憂鬱 (中) 12 了

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