タンザナイトの夕暮れ時(下) 5(28)


ゆっくりと見えてきた思い出は、倉知亮が窓開けた状態でタバコを吸っている場面だった。

その表情は穏やかで特に何かを思い悩んでいる様子もなかった。

タバコを灰皿に押し付ける。髪の毛を掻き上げる仕草しぐさみょうな色気とうれいがあった。

「……ふぅ」

倉知は窓から見える風景を眺める。家々の明かりが綺麗に見えたのか、ずっと見ている。電話が鳴り、倉知は出た。

「あ。母さん、うん。元気でやっているよ」

倉知の電話の相手は母親らしい。倉知の母親はどんな人だろうか。倉知は開いた窓に背を向けるように座って電話をしている。電話を終えて、倉知はスマートフォンをポケットに仕舞しまう。その時だった。


倉知は真っ逆さまに転倒してしまった。転倒した瞬間の音は物々しいものだった。   

転倒した遺体は言うまでもなくえぐいものだ。

けれど、転倒していく瞬間の倉知の表情は驚くまでもなく、ぼんやりとしていた。

生への執着もなくそれを受け入れるような雰囲気だった。

倉知の死は自殺じゃなかった。完全な事故死だ。

倉知が自殺じゃなったことは私の気持ちを和らげた。けれど、死を覚悟した瞬間の表情はやるせないものがあった。

倉知が生きることに消極的だったのは事実なのだろう。

私はそっと腕時計から手を離そうとするが、思い出はゆっくりと違う場面を見せてきた。


それは兄の武田が倉知に腕時計をプレゼントしている場面だった。


「入学おめでとう」

「ありがとう兄貴。俺、兄貴と同じ大学に入るために頑張るよ」

「いいや。お前は好きな道へ行け。俺は親父の言われるままだったけど。お前は」

倉知にとっての兄の武田は頼れる存在だったのだろう。武田は私のところにルビーを持ってきたときよりかは、幾分、表情が良かった。

武田が殺人事件を起こしたことは倉知にとって計り知れない苦悩だっただろう。

倉知があの時、私に向けてきた威嚇は本当のものだっただろう。倉知は武田を信じていた分、裏切られた気持ちもあったかもしれない。

その思いが私への威嚇いかくだった。けれど、私を威嚇したところで事実が覆ることはない。それを倉知は知ったのだろう。思い出は見え続ける。

「俺さ。ずっとパイロットになりたいと思っていたんだ」

「そうか。亮。俺はお前の夢を応援するよ」

「ありがとう」

夢を語る倉知は輝いていた。私は胸が苦しくなった。この思い出は昔のもので、もう倉知はこの世にいない。それを思うとやるせなかった。

私はいつの間にか涙を流していた。すると、思い出は完全に見えなくなった。


白いもやが頭の中に沸いてきて、私はゆっくりと目を閉じた。

次に起こることが何かすぐに察しが着いた。

真っ白な視野の中、あの声がする。


「君は自発的に思い出を見るのをやめた」

「は?」

「君自身の防衛本能によるものだ」

声の主は静かに淡々と語る。その声色は不気味だが、自然と心の中に入ってくるようだった。声の主は私自身なのかもしれない。きっとこれは幻覚だろう。

相変わらずの饒舌じょうぜつさは私と正反対に思えた。

「君が思い出を見れなくなったのは、君自身が自分の思い出を守りたかったんだ」

「思い出を守るねぇ」

「ああ。ピンとこない?」

声の主は笑うような雰囲気だった。声の主の若干、茶化す感じが少し気に入らない。

「よく、条件反射ってあるよね。熱いものを触ったらすぐ手を引っ込めるってやつ。あれ」

「え?」

「そ。そういうこと。でも、君自身はそうしたんだけど、倉知くらちりょうの思い出を、見たよね?」

私はうすら寒くなった。私の思い出は再び、何か無くなるのだろう。今度は何が無くなるのだろう。私は森本を忘れたくないと思った。


タンザナイトの夕暮れ時(下) 5(28) 了


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