065-Y+d_影(3)


 <僕>を規定するものとは何だ。

 僕を<僕>たらしめるものとは、何だ。

 変化しうるものを全て取り去って、残ったものか。

 では変化しないものって何だ。

 細胞は入れ替わり、絶え間なく死へ歩む體も、多くの刺激を受けて奮い立出される心も。

 変わりゆく、移ろいゆく。

 心において根本は変わらない、と言うひともいる。

 それは真か?

 では、根本をも変容してしまったら。

 僕はもう、<僕>ではないのか。

 僕はもう、<僕>になりえないのか。







 

 ぴちょん、と水滴の垂れるような音で、悠は目を覚ました。

 

 ――何を、していたんだっけ。

 

 思い出せない。

 にいて、それでどうしていたんだったか。記憶が混濁して、何もわからない。軀が気怠くて、うまく動かないが、それでも何とか目だけを動かす。

 

 薄暗い。

 真闇ではない。うっすらと、周囲が壁に覆われていることはわかった。その壁にはびっしりと何かが犇めいて蠢いている。

 

 ――蟲だ。

 

 、脚が幾つもある蟲。眼は頭部と、それから足の付根にある。闇を吸い込んだような、てらてらとした黒い蟲だ。

 それらが天井から地面一帯に張り付いて、

 酷い臭いだ。まるで生き物の腐ったような。だがその中に、匂いがある。それはいったい何処から――……。

 

 はた、と悠は心付いた。

 自分は誰かに背負われて運ばれているのだ。悠はぼんやりとした頭で、その運んでくれている者へ視線を下ろす。

 

 ――え、オリヴィアさん?

 

 思わず叫びそうになった。

 オリヴィアが自分を背負って、ずんずん進んでいるのだ。よくよく見れば、自分の投げ出した腕は小麦色の肌をしていて、顔に張り付く髪は濡羽色。これは、ハーヴェイの軀だ。

 

 ――え、どうして?どうして!?

 

 混乱して、目を回す。窓を潜った記憶はない。たぶん。何やらひどく頭がこんがらがっていて、何とも言えぬが、任務中のハーヴェイに代わるなんてまずしないだろうことは言える。

 

 ――ど、どうしよう。

 

 ずっと気絶しているフリ、というわけにもいくまい。たとえどんなにオリヴィアが怪力でも、ずっと同じくらいの体格の少年を担いで進むなんて無茶が過ぎる。此処がいったい何処なのかはさっぱりわからないが、敵に襲われたらひとたまりもない。

 どれくらい担いで歩いていたのかも不明だが、我慢切れらしい。オリヴィアは悠を背負ったまま、荒げた声を上げた。

 

「……ちょっと、いい加減目を覚ましなさいよ。この安本丹あんぽんたん!!」

 

 そこで黙っていれば時間を稼げたものの、吃驚して思わず、悠はひっくとしゃくり上げてしまう。

 オリヴィアもはたと動きを止めて、顔だけこちらに向ける。 

「……ハーヴェイ?起きたの?」 

 ばっちり目があった。誤魔化しようがない。オリヴィアは眉を顰めつつも、とりあえずとばかりに悠を下ろした。

 

 オリヴィアは屈んで悠と向き合うと、言葉を続ける。

「目を覚ましたなら言いなさいよね。何処か痛いところは?」

 ふるふる。

 悠は声も出せず、頭を左右に振って応じた。

 本当は右腕と喉に違和感がある。右腕はおそらく、打ち身だろう。動かすと内側からズキズキとする。何処か内出血をしているに違いない。喉はよくわからない。濃度の濃い素でも飲んだかのような、キリキリとした痛みなのだ。

 

 オリヴィアは深く嘆息すると、

「もう、答える元気もないくらいなら、もっと早く言いなさいよね……て、吐いてるの見てて黙ってた私にも責任はあるんだけど」

 全てにおいて初耳である。

 聞いている感じからして、ハーヴェイ、即ち蓮は元々体調を崩していたらしい。吐いたなんて話も聞かないし、そもそも今の自分は腕と喉の違和感を除き、何処も悪くない。やっと頭も覚めてきたのだが、怠さもなく無論吐き気もない。

 

 ――の住人個人の体調が影響してるのかな?

 

 その辺りの仕組みはイマイチわからないし、おそらくの人間の誰も知らないであろう。ただひとつ言えることは、今の悠はぴんぴんしているが、それを気取られると非常に不都合だ、ということだ。

 悠は努めて真顔をし、どうするかと思案する。中に呼びかけるにしても、奇妙なことにまったく音がしない。これではきっと助けを求めても誰にも届かない。つまりな誰かが窓の近くに来てくれるまで何とか凌がねばならない。

 

 ――あれ?

 

 ふと、悠は自分に違和感を感じた。

 何だろうか。いつもと、何かが違う。悠はのんびりとその違和感の原因はなんだろうと考えるも、思い付かない。

 

 ――ま、いっか。

 

 とにかく、今は目の前のことに集中しよう。

 そのあっさりと思考を切り替えられた時点ですでに、いつもの自分と異なる。だがそのことにまったく気が付かず、悠はできるだけ蓮の口調を真似てオリヴィアへ尋ねる。

「……ここ、何処だ」

 その悠の言葉に、オリヴィアは大きな碧い目を瞬かせて、きょとんとした。

「何、覚えてないの?下に落ちたのよ」

「下?」

「そうよ。ドナ村の農地の下。あの木の近くで中に引きずり込まれたじゃない」

 ドナ村。ハーヴェイとオリヴィアの目的地だ。人探しをしに訪れたはいいが、何かの理由で地下に引きずり込まれた、ということか。悠はさも思い出したかのように、

「……そうだったな」

 と返した。

 

 きっと窓の外から誰かが見ていたら、その奇妙さに目を瞠ったことだろう。あまりにも冷静過ぎる。悠は嘘を付くのが苦手で、だからこそ実家から出て一人暮らしを始めたのだ。

 だというのに、今の悠はまったく罪悪感というものがなく、あっさりと蓮のフリをし、まっすぐとオリヴィアの目を見ている。

 

 そのためか、若干の不信感があってもそれは体調がよろしくないためと片付け、オリヴィアは話を続けた。

「近くに外に繋がる穴がなかったから、もしかしたら中に運ばれたのかも。じゃなかったら穴を塞がれたか。荷物も武器もないし、困ったわ」

「荷物……水は?」

「それだけは腰に付けていたから無事よ」

 悠は腰元へ視線を下ろした。腰には水の入った革袋や二本の短刀が備えられている。水はもって一日程度の量と言ったところか。悠はぼそり、と言葉を落とす。

「なるほど。早く出ねえとまずいわけか」

 オリヴィアが背負ってまで彷徨うわけだ。

 

 すると、そのオリヴィアは申し訳無さそうに、言葉を鳴らした。

「ひとつ貸してくれない?私、丸腰なのよ」

「……ほら」

 ひょい、と一振り投げて寄越す。連れが丸腰では心許ないので、悠からしても持っていて欲しいところだ。

 悠はゆっくりと立ち上がると、再び周囲を見渡した。さほど上背のないハーヴェイや、中背のオリヴィアならば、ギリギリ立っていられるくらいの道だ。足元から天井まで万遍なく蟲が這いずり回り、まるで蟲が路を作っているよう。

「地下道……何かの巣穴か」

「みたい。人間が悠々と入れるサイズ、というのが何か気持ち悪いけど」

 

 そこまで言ってふと、悠は思考を留めた。

 

 ――なんでそんなこと、わかるんだ?

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