063-[IN]Y_影(1)


 それは数日前に遡る。

 

 あの日以来、悠は自室に籠もっていた。何となく、気不味くてたまらないのだ。ゆえに、まさか紫苑や他の住人たちもずっと一階へ行っていないとは気づかずにいた。

 

「……はあ」

 悠は深く、嘆息する。

 

 こんな風に籠もっていたら、まるであおいだ。別に引き籠もることを否定するわけではないが、ずっと室内に籠もっていても気が滅入るだけだ。

 

 ――たまには、一階行こうかな……。

 

 でも、蓮に出くわしたらどうしよう。悠は左の親指をぎりぎりと噛み、思案する。

 かなり強く当たってしまった。考えてみれば、紫苑が彼の精神年齢は中学生くらいなのだと言っていた。の住人がずっと時の止まった状態なのである、というのであれば、かなり大人げないことをしてしまったことになる。

 

 ――いや、厭なんだけどさ。

 

 知らない自分と重ねられるのはとてつもなく気分が悪い。ただでさえ不確かな自分なのに、それを完全に否定されているみたいで。

 

 でも。

 

 ――よほど、親密な関係だったんだろうな。

 

 ハーヴェイとしての蓮を見ていると、人間に執着する気質タイプではないように見受けられた。紫苑が小五月蠅いので一応、人付き合いをしているという感じだ。

 その所為か、私的なことに関しては集合時間も守らないし、気を遣うこともない。オリヴィアが屑だと罵りたくなるのもわからないことはない。

 また深く溜め息を付くと、悠は意を決して重い腰を上げた。せめて、何か飲み物を取ってこよう。ここずっと、部屋に持ち込んだ軽食と水しかとっていない。

 悠はそうっと自室の扉を開け、廊下に人の気配がないことを確認する。右よし、左よし。何だか、久方ぶりにハーヴェイとして出たときを思い出す不審行動だ。

 

 部屋を出ると、悠は何となく足を止めた。

 

 玄関の方だ。何か、音がしたような気がしたのだ。悠は何となく玄関の扉の近くへ歩き寄ってみるが、今度は何も音がしない。気の所為だったのだろうか。

 

 ふと、玄関に一番近い部屋の扉に目が留まった。

「蓮さんの部屋って一番奥なんだ……」

 

 ネーム・プレートに「蓮」の文字がある。苗字はない。蓮はただの蓮、らしい。自分の部屋は「五十嵐 悠」だったので、苗字を記入しないという仕組みではないはずだ。

 悠はふらふらと、階段へ向けて歩き始めた。

 ――そう言えば、ちゃんとプレートを見たこと無いな。

 釘で扉の固定されている部屋にはプレートはない。そんな部屋のほうが割合としては多く、かなり歩いてようやくプレートのある部屋を見る。

 

 ――「夏目」紫苑?

 

 紫苑の部屋だろう。苗字が悠と異なる。すぐ近くには陽茉の部屋もあり、陽茉もまた、夏目と記されていた。

 

 ――夏目?何処かで聞いたような……。

 

 何処だったか。いくら考えても思い起こせない。もしかすれば、夏目漱石から連装してしまったのかもしれない。悠はかぶりを振り、考えるのを止め、また足を進める。

 

 ――カタカナの名前の人もいるんだ。

 

 トラヴィスに、リマ。会ったことのない住人たちの名だ。考えてみれば、住人たちの見た目に統一性は無いので、西洋的な名前や見た目の住人がいても何ら可怪しくはない。

 そもそも、このが何処で何なのかすらわかっていないので、非生物が住んでいて襲われても文句の言いようがない。

 

 キイイ……


 突然、背後から扉の開く音がして、悠はドキリとした。誰か、部屋から出てきたのだろうか。悠は恐る恐る、振り返った。

 

「え?」

 

 玄関の扉が開いている。だのに、そこには誰も立っていない。

 ――近寄るなよ、て言われてるけど……。

 少しくらい。少し、覗くくらいなら問題ないだろう。悠はドキドキとしながら、足を玄関へ向けてふらふらと歩き出す。

 ――というかまだ、従おうとしてるんだなあ。

 不思議だ。あれだけ蓮に怒鳴り散らしておいて、未だに蓮のお願いを聞こうとしている。

 

 ――なんか、聞いてあげないと、いけない気になるんだよな。

 

 それもまた、とてつもなく自分の心をそわそわさせる。どうして、見ず知らずの少年のために願いを聞いてやろうとしている自分がいるのか。紫苑や陽茉にもきっと同じように感じるのかもしれないが、それでも。あの少年には何か、特別な――。

 

 悠はハッとして、両頬を手で強く打つ。

 

 玄関へ近付くな、と蓮が懇願した時にも同じ感覚に襲われた。そしてあの時。実は蓮と言い合いになったあの時も心の奥底で、何かが「やめろ」と警告を鳴らしていた。彼のために動け。悲しませてはならない、と。それがどうしようもなく、気持ち悪い。

 大人げないとはわかっている。若干ムキになり、悠は玄関の扉までつかつかと進んだ。

「……誰も、いない?」

 悠は首を傾げた。いざ扉の向こうを覗き込んでも、人影すらない。そもそも。

 

「なんか、暗い?」

 玄関から向こうは真っ暗で何も見えない。記憶の定かでは無いのだが、灯りが無かったであろうか。

  

 するとやにわに、視界がぐにゃりと曲がり、立ち眩んだ。眩しい、訳でもないのだが、何やら目眩を起こすような、何かを感じた。前訪れた時には特になにもなかったような気もする。とはいえど、この扉を開けたのを見たのは此れで二回目。「当たり前」を決めつけるには少なすぎる。

 目眩が収まると、悠は頭を抱えたまま前方を見据えた。目を細めて見ると、一応、廊下や個室の扉が見えないことはない。試しに、悠は日本側の廊下へと踏み入れた。

 クロレンス側と同じ長く続く廊下に、多くの個室部屋。全ての扉は閉じられており、その多くは釘で固定されている。異なると言えば、白色はくしょくに塗り上げられていることか。

 

 ――クロレンスより部屋、多いのかな?


 気の所為かもしれぬが、ずっと廊下が長いように感じる。行けども行けども、階段へ行き着かない。同じ造りの建物が並んでいるのだと考えていたのだが、思い違いらしい。日本側の方が、敷地が広いのかもしれない。

 

 ――まあ、本当の広さなんて。

 

 解らないのだが。クロレンス側も伸びたり縮んだりするのだ。偶々、日本側が伸びている日だったのかもしれない。

 

「うわっ」 

 何かを蹴飛ばし、悠は後退った。


 恐る恐る物の転がった音のした方へ目を凝らすと、何かの割れた破片のようだった。よくよく見ると、其れが何なのかまでは判別付かぬのだが、床には色々なものが転がっていた。

 

 ――危ないなあ。

 

 片付けないのであろうか。それとも、のであろうか。は物が突然湧いて出てくるので、住人に訊ねてみなければどちらなのか判断がつかない。

 

 ――皆、部屋に籠もっているのかな。

 

 誰一人、通りがからない。悠は足元に最新の注意を払いながらも、開いている部屋の扉がないものかと観察したが、何れの部屋も閉められていた。

 

 ――ノアにエマ・ホワイト。これは、ディアナ、かな?

 日本側なのに、横文字の名前が多い気がする。

 


「あら珍しいお客さん。いらっしゃい」


  

 突として、後ろから小鳥が囀るような、ころころとした愛らしい女の声がし、悠はドキリとした。

 振り返ると、いつの間にか背後に、女がひとり佇んでいる。顔はよく見えない。然し、薄気味悪い笑みを浮かべていることだけは感じ取れた。


 ――誰?

 

 声をかけようと悠は口を開き――意識がふつり、と遮断された。

 

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