064-[MID]Y/S_影(2)
次の瞬間、悠はハッとした。
暗い。
何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。
自分は誰だったか。
自分は何をしていたのだったか。
――そうだ。僕は、「悠」だ。
玄関の扉が勝手に開いて、気になって。厭な葛藤が気持ち悪くて、意地になって玄関に近寄った。それでそのまま、何となく日本側の廊下へ出て。それから。
その後は?
その後、自分はどうしたのだったか。
「う……ここ……?」
悠はゆっくりと
否。目はずっと開かれていたのだ。何も映さず、像を結んでいなかっただけ。自分はずっと、
「いたた……」
僅かに喉から右肩辺りが痛む。手が痺れているようにも思えた。悠は右の腕を擦って痛みを紛らわしながら、周囲を見渡した。何もない。しかし、目の前に扉ひとつあることだけは分かった。見えない扉だ。悠は試しにドアノブを捻るが、びくりとも動かない。どうやら、
「ここって、
何もない空間を悠は歩いた。闇は何処までも続き、壁がない。あまり遠くまで行くと、外へ出られなくなってしまうかもしれない。そんな考えが脳裏を過り、悠は慌てて、扉のそばへ戻った。
「誰か。誰かいませんか!」
声は虚しさを伴って木霊する。外へ届いたような気がしない。悠は血の気の引くのを感じた。このまま誰も見つけてくれなかったら。
――紫苑さんも、陽茉ちゃんも部屋に籠もってるし……。
そもそも姿が見えないことに、誰も気が付かないのではないか。それにそもそも、
――知らない住人、だよね。たぶん。
自分の知っている住人は三人だけ。紫苑と陽茉は部屋に籠もっていたはずだから、残りは蓮となるが、彼がこんな洒落になら無い悪巫山戯をするわけがない。兎にも角にも、こんな悪意すら感じられる悪戯をするような住人がいるということだ。
「どうしよう……。」
悠は途方に暮れた。外との連絡手段は無い。携帯電話のない時代の遭難者はこんな気分だったのであろうか。
「あら、やっと目を覚ましたのね。」
矢庭に、聞いたことのない女の声が木霊した。
悠はビクッと肩を震わせて硬直する。知らないはずの声なのに、恐怖心のようなぞわぞわとした感覚が足をすくませる。
それでも悠は、おそるおそる声のした方へ顔を向けた。暗い部屋の何処かに、その女がいることを薄っすらと感じるが、暗すぎて何処にいるのか分からない。
「なかなか起きないものだから、退屈していたのよ」
また、あの女の声だ。
声は上方から聞こえているような気もするし、前方から鳴り響いているような気もする。無邪気な女の子にも、妖艶な女のようにも聞こえる不思議な声。悠は何もない空間を見渡して、訊ねた。
「……あなたは、誰なんですか?」
「本当になあんにも、覚えていないのね。」
楽しそうな、悲しそうな声音で、女がくすくすと嗤う。悠は顔を顰める。もしかしてまた、かつての「悠」に用事があるのではなかろうか。
「……事故に遭う前に会ったことがあるんですか?」
「いいえ。
反響して、闇に声が溶けていく。悠は扉を背に、少したじろいぎながらも、前を見据えた。すると突然、今度は耳元で囁き声がした。
「だって、あなたは
✙
紫苑は自室でふと、
「やっぱり、向いてないんだよなあ……」
纏め役なんて、柄じゃない。致し方なく請け負っているだけ。本当は今すぐこんな役割を返却して、逃げ出したい。紫苑は顔を覆い、沈黙する。
ガシャン……!
突然の、何かが割れた音に紫苑は飛び起きた。
「え、何、今の音?」
一階ではない。此処、二階だ。紫苑は慌てて
「どうしたんだい!?」
同じように驚いたのか、陽茉も部屋を出て、廊下の奥の一室前でおろおろとしている。確かあの辺りは――悠の部屋だ。
紫苑は足早に陽茉のそばへ寄りながら、同じことを問う。
「マリ、何があったんだい」
「ゆ、ゆうお兄ちゃの部屋、ど、ドア開けない……」
「はあ?」
そう言って、部屋前に辿り着くと、紫苑は何かを蹴飛ばし、慌てて足を止めた。その蹴飛ばしたものを拾い上げてみると、
「ネームプレート?」
悠の部屋のものだろう。何故か、「五十嵐」の文字が薄れている。こんなことは一度もなかったのに、何故?――紫苑は厭な予感がして、慌てて悠の部屋の扉を引いてみる。
「確かに、開かない……」
何度引いてもガチャガチャと扉の打つかる音がするだけで、扉はびくりとも動かない。
無論、ドアノブの外鍵を見て、鍵が閉められていないのは確認済みだ。むしろどうやって閉め切っているのかと気になるところだ。無い頭を捏ねくり回しても、その原因はさっぱりわからない。
傍らへ視線を向けると、不安を感じているのか、陽茉は俯いてぎゅっとウサギのぬいぐるみを抱きしめている。
――不味いな。
一階の外へ繋がる窓からは距離があるゆえ、陽茉の感情はハーヴェイへ伝播しないと思うが……陽茉の強い感情は時おり外部にまで届いてしまうことがある。個室へ引っ込ませるべきか。
「マリ、ここはぼくが何とかするから、部屋へお戻り」
「で、でも……れ、れんお兄ちゃん……お兄ちゃ、は?」
無事なのを見ない限り、部屋へ戻りたくないというところか。紫苑はどうすべきかとあたふたとしながらも、とりあえずとばかりに扉を強く叩き、室内へ呼びかけてみる。
「ユウ!ユウ!聞こえるかい!此処を開けておくれ!」
やはりと言うべきか、返事がない。紫苑は頭を抱え、地団駄を踏む。
「ああ、もう!どうしてこう、
住人ですらその仕組みはわからないのだ。部屋の数が突然変わることもあるので、その不思議仕様に巻き込まれたのかもしれない。
紫苑はふと、動きを止めた。
「……え?」
一階から、物音がしたのである。誰もいないはずの、一階から。
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