130-Y&R_気配(1)
引き締まった冷気の、朝六時。土曜日のクリスマス・イヴを終え、早めの年末年始休暇を迎えた日本の街はまだ暗く寝静まっている。その静けさに包まれた薄暗いアスファルトの道を、一人の女が走っていた。
黒いタイツにショートパンツ、体にフィットするタートルネックのランニング・ウェアに迷彩柄のパーカーという、彼女の靭やかな体つきがよくわかる服装だ。腰元にある黒いウエストポーチが細くくびれた腰元を強調している。彼女は速度を落とすこと無く走り抜け、僅かな街灯のみに照らされた倉庫街を手前にようやく速度を落とし、足を止めた。
ちらほら鈍器で殴ったかのような凹みのある倉庫はあるものの、血の海も気味悪い化け犬の死骸もない。周囲と同じように静寂と日常に包まれているその光景に、女は独り言つ。
「……
少し舌足らずで、低めの女の声だ。
被っていた迷彩柄のベースボール・キャップを脱ぎ、
「クロレンスでも同じだったんだろ?俺は見てないから知らねえけど」
傍目には一人喋りをしている女学生である。だが彼女は明確な相手を想定して話をしている。すると呼応するように彼女の脳内で、一人の少年の声が鳴らされた。
(そうですね……。というか今、やっぱりって言いませんでした?)
彼女、
(まだ早朝とはいえ、まだ誰も騒いでないからそう思っただけだ。この辺り、犬の散歩多いだろ)
(まあそうですけど)
一応近くに住宅街があるためか時おり柴犬やらポメラニアンやらをリードで繋いだ街の住民が通り過ぎる。クリスマス・イヴの夜に誰にも遭遇しなかったのは幸運であったと言えるだろう。
蓮は
「危険もなさそうだし代わるか?」
(今は一人走ってるだけですし、どっちでも……)
そう悠が答えかけた時、蓮は突然に足を止め振り返った。その手にはいつの間にかウエストポーチから取り出したサバイバルナイフ。背後から何者かが忍び寄ってくるのを蓮が気取ったのである。
するとその人影が大声を上げた。
「ちょい待ちちょい待ち!そのすぐに
「……ジュンイチロー」
サバイバルナイフを寸止めしたまま、蓮は目を見開いた。
其処には、銀髪に赤メッシュ、耳に多量のピアスをしている派手な長駆の男の姿がある。彼もまたランニングでもしていたのか赤いジャージ姿だ。
その男、
「足音もなく入ってきたから何と思ったやんか。やっぱり蓮やったけど」
「そんなに足音しねえか?」
「まさに猫みたいに全然しないで」
当人は無自覚なのでわからないのだ。悠もまた狭間や中からしか音を聞いていないので、さすがに蓮の足音の有無まではわからない、
だが事実、冒険者として獣やならず者に忍び寄る時の所作が身に沁みてしまっているのか、蓮の足音は酷く静かだ。二年半のトレーニングによりそこそこ筋力のついた
蓮は小さく嘆息すると、サバイバルナイフをウエストポーチに戻しながら言う。
「というかお前。一人でこんなところに来て、危ねえだろ」
「それお前が言うかいな」
お互い、魔獣がどうなったのか気になって見に来てしまったということだ。犯人でなくとも後ろめたいものがあると現場に戻るときは戻るのである。
淳一郎は屈んで凹んだ倉庫の壁面を見ると、顎に手をやった。
「しっかし、あのワンコろ何処へ消えたんや?」
「誰が来て後片付けでもしたんじゃねえの」
「それマジで言っとる?」
「まさか」
あっさりと言い返す蓮に、淳一郎はガクリと脱力する。このやり取りを紫苑やヨナスが見ていれば驚愕したであろう。無駄な会話をほとんどしないあの蓮が冗談を言って巫山戯ていると。だが残念ながら、二人ともちょうど窓の前にいない。
すっと立ち上がると、淳一郎は頭を掻きながら間延びした声を鳴らす。
「ゲームのダンジョンよろしく、時間たったらまた出現なんてオチやないよな」
そう言いたくなるほどに本当に忽然と姿を消したのだ。倉庫の壁の凹みがなければ、昨晩の出来事自体が夢だったのではないかと疑ったであろう。だが此処は現実世界である。ゆえに、「んなわけねえだろ。……たぶん」
「演技下手やなあ、五十嵐。五十嵐って呼ぶのもなんやし、悠でええか?」
すかさずツッコミを入れた淳一郎に「
「……さすが。今のは何でバレた?」
「舌足らずさが不自然やし、咄嗟に出る手足が反対や」
淳一郎の視線は一歩前に踏み出していた蒼の左足にある。そしてウエストポーチを直す手も左。蒼の肉体を駆っていた悠は顔を引き攣らせた。
「気持ち悪いくらいによく見ているね」
「普通やろ」
「んなわけあるか」
その他にも蓮と違って肉体の操り方のコツを掴むのが苦手な悠のほうが歩く時に頭がブレる、それゆえに足音が鳴るなどもあるが、つい先程の行動では顕著に出ていない。ほんの一瞬の行動から、この見た目だけが派手な男は入れ替わりを見抜いたのだ。
悠は目を半眼にして淳一郎に問いかける。
「君塚って趣味が人間観察だったりする?」
「人間よりは猫のが好きやなあ。ふにゃふにゃしてて可愛いやんか」
淳一郎が口元を緩めてニヤニヤする。彼は生粋の猫派なのである。それでいて、丸顔より三角顔の、野性味のある猫が好みらしい。ペットショップでベンガルを見れば「可愛いでちゅねー」と赤ちゃん言葉を使い、公園で威嚇する野良猫を見ればスマホのカメラを連写する。
たったの数ヶ月の付き合いである悠ですら、淳一郎の猫好きは知っている。
「相変わらず猫が好きなんだね」
「下宿先はペット禁止やさかい、社会人になったら猫飼うねん。そしたら悠も蓮も見に来てええで」
「いや、僕はあんまり生き物好きじゃないから……」
途中まで言いかけて、悠は言葉を止めた。ウエストポーチの中で、ピロンッと着信音が鳴らされたのである。二人はきょとんとして顔を見合わせ、先に淳一郎が疑問を口にした。
「なんや?チャットか?」
「なんだろ……」
こんな朝っぱらから連絡を寄越す知人に覚えがなく、悠はスマートフォンをウエストポーチから取り出した。画面には一件の通知画面。悠は眉を顰めた。登録した覚えのないアカウント名からの通知だったからだ。
「「W」……?誰、これ」
「なんや、悠も知らんのか」
そう言葉を掛けた淳一郎に、悠はいっそう訝って眉根を寄せる。
「……
「蓮が初めて俺と会ったとき、蓮も聞いてきたんや。このアカウント名に覚えないかって」
「なにそれ……僕も知らない」
いつの間に登録されたのか。薄気味悪さを覚えながらも悠はチャットアプリケーションを起動させ、目的のトークルームを開こうとする。その瞬間。
「あの、すみません」
と見知らぬ声が鳴らされ、悠と淳一郎はギョッとして振り返った。
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