023-Y+d_孤立(1)
〈在る〉とは何か。
かの有名な哲学者、マルティン・ハイデッガーがその思索を断念する程の難題。
〈僕たちが在る〉とは、どういうことなのか。
友人や家族、同僚たちに、眼の前にいるこの肉体として、「五十嵐蒼」や「ハーヴェイ・ブルック」として僕たちは意識されている。内気で夢想好きの日本人学生。ぶっきら棒で好戦的な少年戦士。いずれも外から見た「僕」に過ぎず、それ以前に、「僕たちは
科学の世界であれば、前提条件のようなものだろう。科学を語る上では、重力やDNAが何者なのかは問うてはいけない。それと同じであろう。
ハイデッガーが亡き後、この課題は誰の手に渡っても解明されていない。まるで、神がそれを拒むかのように。
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインが言った。僕たちの言語では、世界を語り得ぬと言った。僕たちの意識には、限界がある。それ故に、具現化する言葉で世界の全てを語ること等、出来るはずがないのだと。
きっと、〈在る〉ことや、〈僕〉のことも、それらに含まれているのだろう。
僕が〈僕〉であると証明出来る時はきっと、訪れないのだろう。
✙
時は少し遡る。
クレアの
背に風と圧を一身に受け、それが背の傷を疼かせる。薄れそうになる意識をどうにか保ち、悠はクレアをぎゅっと抱きしめ、下方を横目で見た。
――あの木の上に。
視界の端が捉えた、河沿いに聳え立つ木々。あの上に、落ちれば、あれらが緩衝材になるかもしれない。少しは、衝撃を吸収してくれるかもしれない。悠はクレアが下敷きにならぬよう自分の胸に彼女を抱え込み、身を丸めた。
たちまちのうちに、加速度のついた衝撃を背中全体が捉えた。その衝撃で、勢い良く鋭く尖った枝が傷口を押し開くかのように突き刺さる。悠は痛みで一寸、時が止まったかのような感覚に囚われた。
しかし時待たずして枝の折れた音がし、再び真っ逆様に落ちて行った。木々の枝が脚を、腕を、顔を、全身の肌を掠めていく。その都度に鋭い痛みが走って息を詰まらせる。
落ちる速度が段々に緩やかになると、悠は懸命に腕を伸ばし枝を掴んだ。されど悠の狙い通りには行かず、その枝は折れてしまう。そしてとうとう悠たちは、峡谷を流れる大河の方へ放り出された。
「……クレアさん!息、とめてっ!」
咄嗟に悠はクレアに向けて叫ぶと、悠は背中から水面に叩きつけられ、次の瞬間には大河の中へと沈んでいた。赤黒い液体が水の中で漂う。細かい水疱と、煌めく水面が視界に広まっていた。
――岸に、上がらないと。
クレアを強く抱きしめ、悠は空いているほうの腕で水をかき、無心で岸辺へと向かった。
「ぶはっ!」
「げほげほっ!」
悠とクレアは水面から顔を出し、飲み込んだ水を吐き出した。
「あと少しです。頑張ってください」
とクレアを叱咤激励すると、悠はただひたすらに岸へ向かって泳ぎ、辛うじて河辺にそびえ立つ木の根を掴むことが出来た。
「クレア、さん。早く、掴んで。岸に上がって!」
「う、うん……」
クレアは悠に背を押されながら、何とか岸へ上がったのを視認すると、力の入らぬ両の手で一心に木の根を掴み、岸へ攀じ登った。河の水で体が冷え、少し肌寒い。
「……ねえ、ハーヴェイ。大丈夫なの?」
クレアの怯えた声が悠の耳に届いた。寒いのか、恐ろしいのか、はたまた両方なのか。彼女は蒼白な顔をしている。それでも兎に角、彼女は生きている。
悠はずぶ濡れの体を引きずるようにして歩き、周囲を見渡した。近辺は大雨で視界が真っ白だった。その中で薄っすらと、荷馬車の破片や血にまみれた男たちの死体、馬や魔獣の死骸が転々と転がっていた。
その中には、ジェフの姿もあった。ぱっくりと頭が割れ、其処から脳髄の一部が覗いている。腕や脚が妙な方向を向き、骨が突き出していた。
不思議と吐き気や哀情は湧き起こらなかった。悠は頭の奥がじいんと鈍り、クレアをどこか安全なところへ連れていかねばと、それ以外の考えが頭に浮かばなかった。
「……ハーヴェイッ。ハーヴェイッ!」
クレアが必死に声をかけてきた。なにやら、何かを伝えたいらしく、悠の上着を引っ張っている。悠はよろよろとクレアの方を見た。
「……なん、ですか……?どうかし……ました?」
「あそこ、みて。」
クレアが指差すので、悠は緩慢とした動きでその方向を目で追った。クレアの指さした先には、大きな洞窟があった。あれならば、確かに雨宿りには丁度いいだろう。悠とクレアは洞窟へ向けて足を進めた。
洞窟の中へ辿り着くと、悠は緊張の糸が途切れたように、地面の上へ崩れ落ちた。
――痛い。
――苦しい。
「ハーヴェイ、簡単な手当をするから脱いで」
とクレアは言った。悠は手に力を込めようとするも、そもそも思うように体が動かせない。悠は声を絞り出して言った。
「すみま……せん。ちょっと、無理そうです……」
「大丈夫よ。わたしに任せて」
クレアの顔が見えない。しかし、彼女の声が震えていることだけはわかった。悠はなんとか取り繕うとするが、全身に痛みが走り、うまく笑えない。
――これはちょっと、まずいかも……。
視界がだんだん暗くなってきた。この感覚に悠は見覚えがあった。あのスポーツカーにはねられた時とよく似ている。
――今度こそ、死ぬのかな。
悠の意識の片隅に、そんな考えが浮かび上がった。
しかし死を恐れられる程の思考力は、最早残されていなかった。
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