025-Y_孤立(3)
気がつくと、自分はカッターナイフを握っていた。
黄色い、よく見かけるカッターナイフだ。
自分はそれを握り、振り上げていた。
下を見ると、自分は女にまたがっていた。
酒の臭いのする、眠っている女だ。
恐れでカッターナイフを壁に向かって投げた。
女から離れようと、尻餅をつく。
自分は、何をしていたのだろう。
記憶がない。
さっきまでこの女に撲られていて。
そのあとは、どうしたのだろう。
気がついたら、カッターナイフを持っていた。
なぜ?
自分はこの女を殺そうとしたのだろうか?
女は変わらず、があがあといびきを立てて寝ている。
怖い。
自分が怖い。恐ろしい。
✙
悠ははっと意識を取り戻した。
――ここは、何処だ?
薄暗い洞窟のようだ。目のみを動かして横を見ると、クレアがすうすうと寝息を立てて眠っている顔が見えた。
――あれ?
いつの間に、この様な場所に辿り着いたのだろうか。途中から意識が朦朧としていた為、よく覚えていない。
「うっ」
起き上がると、全身を鋭い痛みが支配する。少し離れた場所へ視線を向けると、血塗れの一本の木の枝が転がっていた。
再びクレアの方へ目を戻すと、彼女は下着のみを身に付けており、自身の方へ目を向けると、自分自身もそのようになっていた。風邪を引かぬよう、脱がせてくれたらしい。
――暖かい?
何処と無く、じんわりとした暖かさを感じる。それによくよく考えてみると、視界が何かに照らされている。何と無しに熱を感じる方へ視線を動かすと、焚き火が焚かれていた。ぱちぱちと柔らかな音を立てている。
その傍で、裾の破れたクレアのドレスと、自分の履いていた長ズボンが干されていた。血と泥で塗れた上着は使い物にならないと踏んだのか、地面の上に放られていた。
――どれくらい、時間が経ったのだろう。
クレアを起こさぬよう、悠は静かにそっと立ち上がった。洞窟の出口近くの方まで足を進めると、雨は強く、ざあざあ降っているのが見えた。一向に雨は止みそうにない。最悪の場合、このまま外に出るしかないのだが、オリヴィアたちの元へ無事に辿り着けるだろうか。
その時。
間の抜けた腹の虫が鳴り響いた。クレアは眠っている故、誰も聞いてはいないの理解しているのが、恥ずかしい。緊張していても、生理現象は自重というもの知らぬらしい。
「う……」
視界が暗くなり、ふわふわとした浮遊感が襲った。貧血のせいだろうか。このような体の調子で果たして激しい雨の中を歩けるのだろうか。
眩暈が収まると、悠は覚束無い足取りで焚き火の傍へ歩き寄り、既に乾いていた長ズボンに足を通した。左腿がズキズキと痛む。
「……ハー…………ヴェイ?」
寝惚けたクレアの声がした。悠は蹌踉めきながらも、出来るだけ急いでクレアの傍に戻り、彼女の横に坐した。
「はい。此処にいますよ」
悠が答えると、正気を取り戻した様子でクレアが飛び起きた。悠を見るなり、クレアが夢じゃないかと確認するためか、自分の頬を抓っている。
「ハーヴェイ……本当に、ハーヴェイ?目を覚ましたの?」
「はい。手当、してくださったんですね。ありがとうございます」
クレアはぐっと何かを堪える表情をした。涙が今にも零れ落ちそうなほどにその翡翠色の瞳に涙を溜めている。そんなクレアを見て、悠は狼狽し、思いあぐねた。
かなり心配をかけてしまったようなのだが、なんと声を掛けてやればよいのか。とうとう、クレアが嗚咽を漏らし、しくしくと泣き始めた。
「ずっと……起きない……から、心配、したのよ」
鼻声でクレアが言い放つと、息つく間もなく悠に抱きついた。クレアの腕が傷に障る。痛みのあまり、痛い痛い、と悠は叫んだ。
「ごめんなさい。嬉しくて」
と言うと、ずずっとクレアが
「……なんかすみません。途中から意識がなくて」
「そうでしょうね。まる一日は起きなかったから」
「え?」
悠は呆気にとられる。
――なんだって。一日?一日もここにいたのか。食料もないのに……。
「もう二日目よ。ここに来て」
「……あの、クレアさんは食事……」
「……死んだ馬の肉を焼いたの。あと、樹の実を拾って食いつないだわ」
「……すみません」
なんと恐ろしいことを幼い子にさせてしまったのか。サバイバル経験もないだろうに。この年齢だ。生き物を捌くのも初めてだったのではなかろうか。
もし悠が目覚めていれば既に此処から脱出していたかもしれないし、何か出来たかもしれない。(自分もサバイバル経験は無いが。)そう思うと、悠は心苦しくなった。こんな雨の中、腹を空かせて、怪我人を前に一人で心細かっただろう。
クレアは「残りの樹の実はあなたにあげる」と言って、食料の一部を悠に譲った。彼女の苦労を考えると本当は断るべきなのだろうが、腹が空いて仕方がなかったので悠は有難くそれを頂戴した。樹の実を口に入れると、苦くて、ぼそぼそして、何とも言い表せぬ味がした。
「でも、まだ意識が若干あるときに、何度もご家族を呼んでいたけど、仲の良いご兄弟なのかしら」
突然、クレアが切り出した。悠は目が点になった。妹でも呼んだのであろうか。少し気恥ずかしいな、と思いながらも悠は残りの樹の実を口に放り込んだ。
「ハーヴェイ、お兄さんがいるのね。頻りに呼んでいたわよ」
クレアの言葉に、悠は吹き出しそうになった。なわとか手で口元を押さえると、悠は眉を顰める。自分には、父母の他には妹しかいない。「お兄さん」や「お兄ちゃん」と呼ぶような先輩や知人もいない。
「……僕には、妹しかいないですけど」
「ええ?嘘よ。少なくとも一人は「兄ちゃん」て呼んでいたわよ」
「……聞き間違えでは?」
頬を掻きながら、悠は困惑顔をする。悠の反応にクレアは少しばかり不服そうな顔をしていたが、それ以上の追求を諦めたようで、クレアは小さく嘆息を漏らした。
「……妹さんは、おいくつなの?」
「ええと……八つです」
生きていれば、妹は今頃、クレアと同じ年ごろになっているはずだ。しかし、妹は八つで命を落としてしまった。少し悲しい気持ちになり、悠は俯いた。
「私の弟とあなたの妹さん、歳が近いのね」
「……そうですね」
「妹さんは何をしているの人なの。同じように冒険者?何という名前なの?」
「……妹は、「澪」という名前です。……既に故人です……。事故で」
悠は苦しげに答えた。悠と妹は仲の良い兄弟だった。クレアやデニスたち見ていると、本当にもうこの世にいないのだな、と今更ながらに実感される。
「…………ごめんなさい」
と言うと、クレアは俯いた。余計な気を使わせてしまったのだろうか。悠は何と声をかけようかと思い悩んだ。
「……」
「……」
「……」
暫しの沈黙。
「…………お父さまやデニスは……無事かしら」
するとぽつり、とクレアが呟いた。
「もし。もし、死んじゃっていたら……」
悠は黙り込んだ。やはり、不安であったのだろう。悠も残してきたオリヴィアや商団の職員たちがどうなったのかはわからない。オリヴィアは強いからきっと大丈夫だと信じられるが、商団の職員は別である。彼らは身を守る術を持たない。
「お父様は、いつもわたしの我儘を聞いて、旅に連れて行ってくれたわ」
クレアがきゅっと悠の手を握った。その手は震えている。
「弟は甘えん坊で、いつも、お姉ちゃん、お姉ちゃん……て」
悠はそっとクレアの頭を撫でた。自分の妹もそうだった。何時も甘えた声を出して自分を呼んでいた。父は気弱だったが優しい人だった。病院で目を覚ましたとき、死んだと聞いて、衝撃を受けた。もう居ないのだと、会えないのだと、なかなか現実を受けとめることが出来なかった。
「もし、二人がいなくなっちゃったら……どうしよう……わたし、一人ぼっちよ」
クレアが嗚咽を漏らした。十で一人身になるのは不安であろう。しかし悠にはベアード氏とデニスが無事であることを祈る他は、彼女にしてやれることがない。自分の不甲斐なさが歯痒い。
「お願い、ハーヴェイはわたしを置いて行かないで」
堰を切ったように、クレアがわあわあと声を上げて泣き始めた。悠はぽん、ぽんとクレアの背中を繰り返し優しく叩いた。
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