026-Y+d_孤立(4)
洞窟の中。
クレアの泣きじゃくる声と、焚き火の炎が爆ぜる音だけが鳴り響いていた。
悠はクレアを静かに宥めながら、それらの音に耳を傾け、そしてぼんやりと思考した。
――ああ、このままだと。
このままでは、自分たちも本当に不味いかもしれない。悠はなんと無しにそんな考えを思い浮かべた。熱で視界が朦朧としている。背や腹から響いてくる痛みに、息が詰まる。
――早く、オリヴィアさんと合流しなくては。
オリヴィアたちは無事であろうか。悠は悶々と考える。悠はオリヴィアがどれほどの強さで、あの男たちと比べるとどれくらい勝っているのか、劣っているのかは分からない。
――どうするかな。
再び洞窟の外へ目を向けると、外の雨は幾分か止みつつあった。外に出て、元の場所を探すべきか。それとも此処でじっとして、助けを待つべきか。とは言えど、悠は渓谷から元の道に戻る方法も知らないうえ、元の道に戻ったとしても、目的地イェーレンまでの道順を知らない。
――困ったなあ。
ふと、悠は焚き火の傍に二本の短刀が転がっているのが見えた。服を干した際に、クレアがズボンから外したのであろう。胸元で泣いているクレアに気づかれぬよう、悠はそっと短刀へ手を伸ばした。
――う。気持ち悪い。
フラッシュ・バックのように、あの時の、剣で人を斬った感覚が鮮明に蘇る。肉の、あの弾力。それを破るときの筋肉と、血液の裂ける音。生臭くて、鉄臭い、血の臭い。
(…………っい)
また、あの声だ。
悠は、ぐっと顔を歪めた。
此処には今、自分しかいない。今、倒れるわけにはいかない。クレアを守れるのは、自分だけなのだ。
(……け)
きいんっと耳鳴りがする。
クレアに気取られぬよう、悠は歯を食いしばった。
(…………!)
何を言っているのか、ちっとも解からない。
頭がずきずきと痛み、視界がぐるぐると回る。
悠の脳裏に、矢継ぎ早に、様々な光景が浮かんでは消えた。
自分に興味のない母、怒ると手がつけられなくなる母。なかなか帰ってきてくれない父に、なんでいてくれないのかと泣き叫びたかった。
――痛い。
繊細な母。哀れで、それでいて若く、美しい人だった。
――痛い。
優しい父に、穏やかな母、無邪気な妹。
――痛い。
そして、悲しいときも辛い時もに傍にいて、支えてくれた、あの大切な人。
――あれ、そんな人、いたっけ。
「ハーヴェイ?」視界に映ったクレアが不思議そうな面持ちをした。「どうかしたの?ハーヴェイ」
悠は慌てて答えた。
「いいえ、何でも無いです。怪我の所為ですかね。少しぼうっとしただけです」
悠は髪を掻き毟った。今は呆けている場合でも、余計なことを考えている場合でもない。此処からどうやってオリヴィアたちと合流するかを考えねばならない。
「雨、止んでないけど、これからどうしますか?」
「それなんだけど、実は一度……」
クレアが何かを言いかけたその瞬間。洞窟の入り口でぱしゃん、と水溜まりを踏みつけたような音がした。
音のした方へ振り向くと、黒い鋼のようなの毛をした、大きなの獣の群れ。あの時の魔獣と同じ種の獣たちだ。四つの赤い目を爛々とさせ、鋭い牙を剝いて唸っている。
――嘘。
悠はごくりと固唾を呑む。悠は急ぎ焚き火の地面に置かれていた短刀を手繰り寄せ、クレアを自分の背後に下がらせた。
何故こんなにも、同じ種の魔獣がこの山脈にいるのか。オリヴィアからはそんな話を聞いていない。そもそもこんなにも魔獣が住み着いていれば、商人たちがこの山脈を通ろうとはしないだろう。
――急に繁殖したとか?
――住処を追われたとか?
日本でも、外来種が数を増やしたとか、山の開発で熊が降りてきたといった報道をたびたびみみにした。クロレンスでも似たようなことが起きているのだろうか。
――でも、それじゃあ、あの男たちは?
ここにその姿は無いが、谷に落ちる前、魔獣は男たちの使役されていたように見えた。そのことと、この数の多さは関係しているのだろうか。
「どうしたの、ハーヴェイ?」
クレアの忍び声で、悠は現実に意識を引き戻された。悠は左右に頭を振り、雑念を払う。魔獣の数がどうとか、今は考えている場合ではない。目下のところ、目前にいる魔獣たちをどうにかしなければならない。既に二回遭遇しているが、何れも引き下がって貰えた試しがない。
悠は魔獣の動きを注視しつつ、二刀の短刀を鞘から抜き取る。あの大剣と比べると、かなり小ぶりで、頼りない。しかし、得物は今これしかないのだ。
ガウッ!
と一匹の魔獣が咆哮を上げると、数匹が一斉に走り出した。瞬く間に悠とクレアは、前方と左右を魔獣に囲まれ、後ろは壁であるが故、退路を完全に断たれた形となった。
長い沈黙。
悠と魔獣は互いに睨み合った。悠は全神経を研ぎ澄まし、魔獣たちの動向をうかがった。魔獣たちは唸り声を上げながら、一歩、一歩と歩み寄ってくる。
刹那。
魔獣のうちの数匹が、悠たちの元へ飛び込んできた。赤い目をぎょろぎょろと動かし、牙を見せた口元からは涎をだらだらと流している。
悠は恐怖と戦いながらも、間合いまで魔獣が来るのを待ち、短刀を構えた。あの大剣と異なり、射程距離が短い故、かなり距離を詰めなければ、刃が通らないのだ。
――今だ。
悠は思い切り、右の手を振るった。刃が魔獣の喉元を抉り、直に弾力のある肉を斬り、骨のあたりを掠めたのを感じる。刀身を伝って、生暖かい血液が自分の手を濡らす。
その不快感に忌避間を抱き、思わず一息に短刀を引き抜くと、勢いよく血飛沫が舞った。休むことなく他の魔獣が来たので、少し身を屈め、左腕でその魔獣の胸に深々と刺し、そのまま腹を掻っ捌く。硬い皮膚をこえ、臓物のぷつぷつと裂ける音が手を通じて伝わってくる。
――気持ち悪い。
大剣を振るっていた時よりもはるかに、ありとあらゆる感覚を直に感じた。刀を突き立てているのか、はたまた、拳で抉っているのか。自分が一体何をしているのか、段々に曖昧になる。
――痛い。
傷口が開いたのか、熱さと、刺すような痛みを感じる。手が、足が、鉛のように重たい。体に付着した、この生ぬるくてどろりとした血液が、自分のものなのか、それとも魔獣のものなのかすら朧気だ。
「いやあ、こっち来ないで!」
クレアの悲鳴で、悠は正気を取り戻した。後ろへ振り返ると、知らず知らずのうちに、一匹の魔獣が自分の後ろにいるクレアの方に迫っていた。
「クレアさんッ!」
後方にまだ、数多ものの魔獣が控えていることも頭から抜け、悠はクレアのそばにいた魔獣へ短刀の片方を投げつけた。気がつくと、彼女の上に覆い被さっていた。
「――ハーヴェイッ!」
後ろにまだいるわ、とクレアが震えた声音で叫ぶ。
彼女の顔へ目線を移すと、瞳いっぱいに涙を浮かべ、顔面蒼白になっていた。悠は彼女の頭を胸に抱え、掠れた声で言った。
「大丈夫ですよ。必ず、守りますから」
魔獣たちが悠の背中に飛びついて来た。牙や爪を立て、肉を抉る。悠は苦痛で顔を歪めながらも、只管にクレアを力強くぎゅうっと抱きしめ、彼女には危害を加えまいとする。
「……うあっ」
意識が白んだ。あの男たちに剣で突き立てられた傷に、崖から落ちた際に枝で貫かれた傷に、魔獣たちの牙が突き刺さった。何度も、何度も傷を抉られ、引きちぎられ、気が遠のいていく。
(……っ!)
ああ、またあの声だ。
(早く……れっ!)
なんだかとても必死な声をしている。
(……から、早く、……っ!)
声の持ち主は泣いているのだろうか?
その語気から、何処か悲壮な感じがする。
(……ゆうっ!)
意識が遠のき、クレアを抱えていた悠の手はだらんと落ちた。そして其処で、悠の意識は途切れた。
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