016-out_混沌(4)

 雨がざあざあと降り注いでいた。

 

 強く冷たい風が吹き始め、気温も下がってきている。雨で視界が悪く、何処からが峡谷なのかすら、判然としない。ベアード商団一行は仕方無しに足を止め、雨が遠すぎるのを待っていた。既にかれこれ三時間ほど経っている。

 

 オリヴィアはハーヴェイを傍で見守っていた。ハーヴェイは荷台の中で寝かされており、雨が降り出す以前からずっと、昏睡したままだった。


 クレアが心配そうな声で、オリヴィアに話掛けた。

「ねえ、ハーヴェイはまだ起きないの?」

 

 デニスも心細そうな面持ちをして、ハーヴェイの傍でぐずっている。静かにオリヴィアは頭を左右に振った。ベアード姉弟の願いも虚しく、彼は未だ目を覚まさない。


 二人の子供たちは祈るように手を握っていた。どうやら、ハーヴェイはこの二人の子供たちに随分と懐かれているようだ。自分の知るハーヴェイからは想像出来ないことではあるものの、気にかけてくれる者が近くにいてくれることは実に喜ばしいことだ。


 オリヴィアは掠れた声で呟く。 

「なんの夢を見ているのかしらね」

 

 ハーヴェイは時折、苦しげな声を溢していた。きっと何か悪い夢を見ているに違いない。傷が障ったのだろうか。顔が少し赤くなり、熱っぽい。汗も酷く掻き、上着がぐっしょりと湿っている。オリヴィアは乾いた布でハーヴェイの汗を拭ってやった。

 

 ――なんだかエルデンに来てからずっと調子が悪いみたい……。

 

 ハーヴェイからは彼に持病があるとは聞いていない。しかし、ハーヴェイとオリヴィアの付き合いは高々一年なのである。単に知る機会が無かっただけなのかもしれない。 

 それに、隠していた可能性も十分に考えうる。ハーヴェイは決して、自分のことを話そうとはしなかった。否。弱みを、隙を見せようとしなかった。だから他の仲間も把握していなくても何ら可怪しくはない。

 

 ――早く、腕の良い医者に診せてやらなくては。

 

 その為には、早く首都イェーレンに辿り着く必要があるのだが、この雨が行く手を阻んで進ませてはくれない。自然現象ばかりは、冒険者として腕が立とうが立たまいが、みな同じ。どうしようもない。

 

 商団の職員たちも、この雨にはほとほと困っているようで、「雨はまだ止まないのか」とたびたび嘆いていた。この風の強さでは、天幕を張るのも儘ならず、一同は突っ立っている他なかった。

 

 ――もう少しで日が暮れてしまうわね。

 

 今日はもう、此処で野営をするしかないかもしれない。この雨や風はいつまで続くのだろうか。オリヴィアはモヤモヤとした焦燥感を感じていた。一刻も早く首都へ向かい、ハーヴェイを医者に診せたい。他の仲間に連絡を取って相談したい。オリヴィアは不安でたまらなかった。今にも泣き出しそうになるのをただひたすらに堪えていた。

 

 ――これがもし、悪い病気の前兆とかだったら。

 オリヴィアには医学的知識がない。同じパーティーメンバーには二人ほど、医学や薬学に精通している者がいる。せめて彼らが此処に居てくれれば、どんなに心強かっただろうか。

 

「う……!」

 ハーヴェイの少し大きな呻き声がオリヴィアの耳に届いた。

 

 ハッと息を呑み彼の顔を覗き込むと、目蓋が少し揺れていた。そして間もなくして、ハーヴェイは見慣れた黄金色の瞳が垣間見せた。 

「う……ここ……は……?」

  

 ――目を覚ましてくれたのね。

 

 緊張が途切れたかのように、ほろりと一粒の涙が頬を伝った。オリヴィアは嗚咽を漏らしそうになるのを一心に堪え、溢れ出る涙を袖で拭う。そんな自分を見て、ハーヴェイが少し驚いた顔をしていた。

 

「……オリヴィアさん?」

 

 ――やっぱり、記憶は戻ってないのね。

 

 目覚めてくれた事への喜びと、未だ知っている彼に戻ってくれてはいない事への寂しさでオリヴィアは心が雑然とした。

 

「……あれ、外、雨降っているんですか?」

 

 荷台の外を見て、ハーヴェイがか細く、弱々しい声で呟いた。未だ寝ぼけているのか一つ一つの動作が緩慢としている。オリヴィアは自身を奮起させるべく、自分の両頬を自分で力強く叩いた。 

「ハーヴェイ、目が覚めてよかったわ。何処か痛むところはない?」

 

「ええと……」 

 オリヴィアに促され、ハーヴェイが腕や脚を軽く動かしてみている。彼がこんなにも間の抜けた顔をしている様には相も変わらず慣れない。

 

「大丈夫そうです」 

「……」

 

 でもやはり、その化け物じみた身体の頑丈さは健全であるようだ。微熱があるのにも関わらず、けろりとしている。痩せ我慢なのかもしれないが、それでも顔色一つ変えないのは変わらずだ。

 

「どうしかしましたか、オリヴィアさん?」 

「ううん……。なんでもないわ」


 変わったようで、変わらぬその様が、彼を他人だと思い込ませてはくれない。割り切らせてはくれない。オリヴィアは一層心を掻き乱された。

 

「もう、しっかりしてよね。馬鹿」 

 と言うと、オリヴィアは無理矢理にでも口角を上げ、笑顔であるよう努めた。ハーヴェイにさとられぬように。


 そして何よりも、自分自身にその思いを気づかせぬように。

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