017-Y_混沌(5)
悠はぼうっと呆けながら、荷台の外を眺めていた。
外は雨。風は冷たい。
雨粒が荷台に張られた日除けを打つ音だけが響き渡っている。
視界は悪く、眼前に広がるは、
先程よりも少し体温が上がったようで、少し気怠かった。その所為か意識がヴェールに包まれたかの如くぼんやりとし、現実感が薄れている。思考が鈍く、頭がまったく回らない。
すると、自分の後方で昼寝をしていたデニスとクレアが寝惚けた声で話掛けてきた。
「ハーヴェイ、だいじょうぶ?」
悠は二人の方へ視線を向けると、力無く取り繕うように笑った。
「はい。大丈夫ですよ」
「もう、オリヴィアがすごく心配してたんだから」
とクレア。
すっかり眠気が覚めたらしい。クレアは頬を膨らませて強い語調で言い放ってきた。そのオリヴィア当人はというと、彼女はベアード氏と共に別の荷馬車の様子を確認すべくこの場を離れており、不在である。
悠はへらりと笑って継いだ。
「はは……。すみません。後で謝っておきます」
「おいハーヴェイとか言ったか?大丈夫か」
不意に、悠は聞き慣れぬ声をした男に話しかけられた。その声のした荷馬車の外へ目を向けると、馬に跨った冒険者の男が荷馬車のすぐ後ろをついていた。
確か、ジェフとかいう名前だ。オリヴィアやヒューゴと同じで、昨夜の魔獣の一件で軽症だった冒険者の一人だ。ヒューゴと同等程度に体格が良く、背も高い。年もヒューゴと同じくらいで、刈り上げた黒髪に紺碧色の瞳をした青年だ。
剣の使い手のようで、腰に剣を携えている。外国の血が入っているのか、オリヴィアたちと少し異なる顔立ちで、かなり骨っぽい顔立ちだ。眼窩の窪みもかなりくっきりとしていて、その彫りの深さが際立っている。
「おおい。大丈夫か?ぼうっとして」
ジェフが顔色を伺うかのように、此方をじっと見つめた。悠はハッとして、
「あ、すみません。少し考え事をしていました」
クロレンスで頭を下げる仕草はないのだが……。ハーヴェイの外見が異国人だったのがよかったのか、ジェフは顔を引き攣らせて、
「おう?そ、そうか。大丈夫ならいいんだ」
「体調の方はそんなに問題ないです。おかげさまで」
「しかしお前さんは頑丈だなあ。他のやつらは高熱で起き上がれていないぞ」
悠が乾いた笑い声で応えると、ジェフは言葉を続けた。
「ヒューゴから聞いたぞ。護衛の担当でもないのに、災難だったな」
「あなた方に比べたら、ずっとマシですよ。魔獣の数も少なかったですし」
「謙虚だなあ。でも、そこのお嬢ちゃんやお坊ちゃんを救ったんだって?」
「結果的に、そうなっただけですよ……」
子供達に害が及ばなくて、本当に良かった。一歩誤れば、子供達の何方か、もしくは両方が命を落としていたかもしれないのだ。ぼんやりとした意識の片隅で、そんな考えが
「ハーヴェイ、もう苦しくない?」
とデニスが言った。
いつの間にか彼も覚醒していたらしい。悠が気を失ったときのことを思い返したのか、彼の顔は蒼白になっている。宥めるべく、悠は優しくデニスの頭を撫でながら、もう平気ですよ、と答えた。
「まったく。しっかりしてよね」
悪態を付きつつも、クレアも悠を気に掛けてくれていたようで、安堵したような表情を浮かべていた。そんな二人の気遣いが嬉しくて、悠は少しばかり、微笑みを浮かべた。気にかけてくれる人が居ることは、やはり嬉しいことだ。
「早く、雨やまないかなぁ。早くお山から出たい……」
デニスは心許なげに空を見つめ、呟いた。この雨さえ止めば、あと二日程度でこの山を抜けられるのだが、寧ろその雨脚は強まりつつある。また魔獣に遭遇する可能性があることを念頭に置くと、すぐ様下山してしまいたいところではある。
「デニス、めそめそしないの」
「だっておねえちやん……。怖いんだもん」
今にも泣き出しそうなデニスを、矢庭にクレアが擽り始めた。クレアなりに弟を元気づけようとしているのだろう。泣きべそを掻いていた筈のデニスは、こそばゆさに耐え切れなくなったのか、愉快げに笑い出した。
仲の良い姉弟だ。そんな光景を見ていると、ふと、悠は妹の生きていた頃を思い起こした。悠の妹の澪は、デニスのように怖がりではなかったものの、甘えん坊で、悠にべったりだった。今のデニスやクレアのように、巫山戯合ったこともある。
我々は切ないから泣くのではない。涙を流すから悲しいのだ。
ウイリアム・ジェイムズがそんなことを言っていたとふと、思い出した。ジェイムズ・ランゲ説だったか。これまでの、感情が行動を引き起こしている、と考えられてきたことを覆した、そんな言葉だ。
大学の講義でこの言葉を聞いた当時、しっくり来なかった。泣くときに一々どちらが先立ったかだなんて、考えたこともなったからだ。だから、鶏が先か卵が先か、のようなものだろう。その程度に考えていた。
でも今ならば、何となく彼が言っている意味が解るような気がする。
この具合の悪さの所為だろうか。何処か感傷的な気分になる。あまり考えないようにしていたにも関わらず、日本への恋しさが募り、目頭が熱くなる。それが更に哀情を掻き立て、ますます鬱々とした気分になった。
――帰りたいなあ。
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