015-A+Y/Y_混沌(3)

 騒騒と音がする。

 何時の間にか、目の前から彼が居なくなっていた。


 此処は、何処だろうか。

 彼を呼んでも、返って来ない。


 ふと裂けるような激しい痛みを感じて、左の手首に視線を移すと、一筋の傷から赤黒い液体がどくどくと溢れ出していた。


 ――痛い。

 ――痛い。

 ――痛い。

 

 目の前が暗くなり、足元が覚束ない。視界の片隅に、あの黄色いカッターナイフが見えた。


 必死に彼の名前を呼ぶが、やはり返事がない。

 彼は何処。

 何処に居るの。


 また、あの騒騒という音が、耳元で鳴り響く。

 何処か高いところから真っ逆さまに落ちているような、そんな圧を全身に感じる。


 此処は何処なのだろう。


「はじめまして。佐代子さよこと、娘のみおです」 

 柔らかな栗色の髪を上品にシニヨンに纏めている、三十路くらいの女性が、穏やかな笑みを浮かべて言った。


 そのすぐ傍には、三歳くらいの女の子が兎のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめいる。母親とそっくりだが、まだ短い髪をリボンで二つに結っている、可愛らしい女の子だ。

 

 何時の間にか、僕は幼い頃によく訪れていたカフェに居た。

 今どきには珍しい、個人経営の小ぢんまりとした、洒落たカフェだ。レコードからはサックスで奏でられる静かなジャズ音楽が流れ、一輪の花を模したアンティーク調のペンダントライトが店内をぼんやりと照らしている。カウンター席では、カフェの主人はサイフォンで珈琲を淹れており、僕たちはカフェの端にあるボックス席にいた。

 

「それで、だな。お父さん、再婚しようと思っているんだ」 

 隣に腰掛けていた父さんが、僕の顔色を伺うような口調で、切り出した。父さんの手元は落ち着きがなく、頻りに眼鏡をかけ直したり、指を弄んだりしている。

 

「……そのだな、数ヶ月前から、佐代子さんとお付き合いしていて……」 

「ひまー。遊ぼうよ」 

 もごもごと、自信なさげな声遣いで説明を試みている父さんの言葉を、澪という女の子の声が遮った。退屈で堪らないのか、テーブルの上によじ登ろうとしている。

 

「あ、こら。澪、やめなさい」

 佐代子さんが必死に澪を止めると、澪は不満そうに唇を尖らせていた。そんな澪を見て佐代子さんは苦笑して続ける。 

「ごめんなさいね。澪、あなたにとても興味あるみたい」

 

 僕はきょとんとした。澪は佐代子さんに抱き止められながらも、こちらにその小さな手をばたばたとさせて、伸ばしている。怖怖と手を差し出すと、澪は嬉しそうに掴み返してきた。 

「一緒に遊ぼうよ。さっきね、ブランコのある公園を見つけたのよ」

 

 澪は無邪気に笑いかけてきた。なんとも社交的な女の子である。面食らっている僕を見て、佐代子さんと父さんが微笑ましげに笑っていた。 

 なんと返事すればよいのか分からず、僕は困惑した。に相談しようにも、一年近く、音沙汰が無い。佐代子さんと父さんを見ると、とても気遣わしげにこちらを見ていた。きっと佐代子さんは優しい人なのだろう。もの柔らかな声音や、ゆったりとした所作が、自然とそう感じさせる。

 

「……うん。いいよ」

 僕は小さな声で答えた。

 やはり、彼は戻っては来なかった。



 音がまた、遠のいていく。

 

 水の中に飛び込んだみたいな、ぶくぶくと水泡が湧き上がるような音が全身を包み込む。水の奥底へと沈んでいくように視界が、徐々に暗くなって行く。

  

 ゆっくりと両の眼を開くと、そこは、僕の実家のリビングルームだった。

 

 リビングにあるテレビからは天気予報が流れており、東京都心では珍しく雪が積もる、と天気予報士が話しているのが聞こえた。

 壁にかけられたカレンダーにはレオナルド・ダ・ヴィンチの絵が描かれていた。絵のタイトルは「最後の晩餐」。おそらく誰もが知っている、ルネサンス期を代表する絵画。その下を見ると、「2011年2月」と書かれていた。

 

「ここ……?」

 

 なんとなく、近くにあるソファの方に目を向けると、ピンク色のダウンコートと赤いランドセルとがソファの背もたれに掛けられていた。

 そのすぐ傍にあるベランダの窓からは、小さなプランターが忘れ去られたかのように、ぽつんと置かれてあるのが見える。その側面には大きな文字で、「いがらし みお」と書かれていた。今は何も植わっていない。雪が降り積もり、土は白く染められていた。

 

「あら、おはよう。もう起きたのね」 

 淡い橙色のエプロンを身に着けた母さんが、僕に声をかけてきた。変わらず、穏やかな声をしている。僕は口を開こうとしたが、うまく声が出せない。気が付けば、母さんはリビングの奥にあるオープンキッチンで朝食の支度を始めていた。

 

「ふああ。なんだお前、今日はえらく早起きだな」 

 大きな欠伸をしながら、父さんがダイニングテーブルに腰掛け、朝刊を広げた。懐かしい、草臥れた背広を着て、縁の太い眼鏡をしている。

 

「おはよう!今日は雪だよっ!雪だるま作ろうよ」 

 足元に、澪が抱きついて来た。栗色のくせっ毛を可愛らしくツインテールにしている。髪を留めるリボンは彼女の気に入りのピンク色のリボン。


 東京で滅多に積もらない雪に心を踊らせているようで、ベランダの窓から外を眺めるのに夢中になっている。母さんはそんな澪を、「手を洗ってきなさい」と優しい声で叱りつけていた。

  

「お皿置くの手伝ってちょうだい」 

 朝食を作り終えたようで、母さんが僕を呼んだ。僕は一言も声を発することなく、皿を受け取り、ダイニングテーブルに並べていく。話し掛けたいのに、声が出ない。妹がお腹ぺこぺこ、と言いながら駆け寄って来るのを見て、手伝ってほしいと言いたかったのに、やはり声が出ない。

 

「そうだ二人とも。今日はお父さん、余裕があるから車に乗っていきなさい」 

 と父さんが僕と澪に向けて言った。この時間、父さんが家に居ること自体珍しいなとは思っていたのだが、どうやら今日は遅めの出勤のようだ。もしかすれば、この雪で在宅勤務にしたのかもしれない。

 

「そうね。二人とも、お父さんに送ってもらいなさい」 

 母がそう言うと、妹が少し残念そうに、はあい、と返事した。

 

 ――ちょっと待って。これって。

 

 既視感を感じた。この雪で、この会話。嫌な予感がする。父さんと澪を止めようとするも、案の定、声も出ない上、身体も動かない。まるで、自分の体ではないようだ。挙句の果てに、自分の口から、わかった、と答えてしまった。

 

 ――駄目だ。

 ――行ってはいけない。

 ――お願い、誰か、止めて。

 

 意に反して、自分は紺色のダッフルコートを羽織り、赤いタータンチェックのマフラーを巻いており、妹はソファに置いてあったピンク色のダウンコートを着て、茶色の手袋を手にはめていた。

 

 ――駄目、やめて。

 

 家の外へ出ると、脚がすうすうとした。雪が降り続き、既に五センチくらいは積もっているように見えた。父は白いワゴン車から雪を払い落とし、そのタイヤにチェーンをつけている。その傍で妹は楽しそうに、雪に足跡を付けて回っていた。

 

 ――お願い、誰でもいいから助けて。

 

「なにしてるの、はやくうっ!」

 

 澪が車の中から僕を呼び、玄関から母さんが「気を付けていってらっしゃい」と声を張っている。びゅうっと冷たい風が脚に吹き付けた。

 

 ――嫌だ、嫌だ。誰か止めて。

 

 そして僕は、車の扉を閉めた。

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