014-Y+d_混沌(2)


 ――ああ、こんな自分は嫌だなあ。

 ――なんで僕、此処にいるんだろう。

 

 悠は平凡な日本人である。

 何か格闘技を習っていたわけでも無ければ、スポーツに才があったわけでも無い。特別に頭が良いわけでも無い。 

 それ故、戦闘に貢献できないことは致し方のないことである。けれども自分が足を引っ張っている、という状況がどうにも我慢ならなかった。

 

 ――僕が本当にハーヴェイになれたら。

 

 もしも自分がハーヴェイだったら、きっとオリヴィアたちの助けになれたであろう。血を目の当たりにしたとしてもきっと冷静に適切な対応をしていたに違いない。怪我をして他者の手を煩わせることもなかったはずだ。

 

 ――それでも、今回ばかりは。

 

 あおいの時とは状況が全くもって異なる。母が悲しまぬよう実家を出るまでの間、あおいのふりをしてきた悠ではあるが、蒼の場合はこれと言って取り柄のない、内気な性格を演じていればよかった。その上、日本の倫理観のもと行動すればよかったので、常識面においてもこれといって苦労することが無かった。

 

 しかしハーヴェイはそうはいかない。そもそも生きる世界が違うので、道徳観念も異なる。その上で、剣で人や獣を傷つけるという、日本では考えられない技術を求められる。しかも、ハーヴェイはそれの達人の中の達人。一朝一夕で身に付けられる技術ではない。


 何よりも、心が付いて行けない。

 

 医師のように血を見る事に慣れておらず、自衛隊員のように高負荷な心労ストレスに対処する術を身に着けているわけでも無い。

  

「雨が降りそう……」 

 悠のすぐ傍で、デニスが小さく呟いた。

 デニスの目線を追い、悠はぼうっと外を眺めた。雨を予感しているのか、山中にいたはずの獣たちの姿をあまり見かけない。

 霧が次第に濃くなり、全てのものが霧に溶け込んで行く。左手に見えていた峡谷は霧に覆われ、その姿を潜ませていた。その様が、まるで自分も、この霧の中で消えていくような、そんな気分にさせた。悠は目を伏せ、血が固まり、ぼろぼろになった親指の爪を見つめた。

 

 ――そういえば、誰だったか。

 

 昔何処かで、誰かに、お前は頭がいかれている、と言われたことがある。

 他人の為ばかりを考えていて、お前がいない、自己犠牲が過ぎると、そう言われた。誰か、とても大切な人だったような気がする。

 だが記憶に靄がかかったように、その顔も声も思い出せない。忘れてはいけないような、そんな気がするのに。


(……いっ)


 悠はふと、顔を上げた。あの時の声だ。知らないはずなのに、何処かで聞いたことのあるような気のする、そんな声。


(……う)


 ズキン、と蟀谷こめかみ付近あたりに刺すような痛みが走る。

 

(う……)

 

 悠はあまりの痛みに、歯を食いしばった。ズキン、ズキン、と痛みは徐々にその激しさを増していく。やはり、この声が頭痛のトリガーになっているようだ。いったい、この声は何なのだろうか。

 考えさせてくれるいとまを与えてくれる事も無く、頭を締め付けるような痛みと共に、キーンという、鼓膜を突き抜けるような高音が耳をつんざく。

 

「……ハーヴェイ、どうしたの?苦しいの?」 

 悠の異変に気がついたのか、デニスが声を掛けた。今にも泣き出しそうな、弱々しいで語気だ。

 

「ぐ……」 

 しかし、悠はデニスに言葉を掛けていられる程の余力を持ち合わせていない。呼吸する都度に、頭蓋を割るような痛みが響く。そして突然目の前が白黒になり、ちかちかと点滅した。


 様子の可怪しい悠に、オリヴィアも目を留めたらしい。そばへ駆け寄って、声を上げる。

「ちょっと、どうしたの?」 

「オリヴィア、ハーヴェイの様子が可怪しいの。どうしよう」

 とデニスは泣き叫ぶ。 

 オリヴィアの驚愕した声や、涙ぐんだデニスの声。そして御者席にいるクレアも察したようで、ベアード氏に馬車を止めるよう、声をかけているのが聞こえた。

 

「頭、いた……」 

 まるで頭の中で鐘が鳴らされているかの如く、耳鳴りがぐあんぐあんと頭の中で音が木霊し、段々にその音の量を上げて行く。

 

「ハーヴェイ、ねえ、ハーヴェイ!」 

 オリヴィアが悲痛そうな声を上げ、必死に悠に声を掛けている。そのオリヴィアの声に混ざって、別のなにかの、ざわざわとした、街中の雑踏のような音もしてくる。

  

 出し抜けにふっと力が抜け、悠は膝から崩れ落ち、誰かに抱きとめたのを感じた。きっとオリヴィアだ。

「ハーヴェイッ!」 

 涙ぐんだオリヴィアの声が徐々に靄がかったかのように音がくぐもり、小さくなっていく。次第に気が遠くなり、思考することもままならなくなる。


(……おい、……ゆうっ!)

 またあの声だ。

 だがその声に応えることもなく、悠の意識はそこでぷつり、と閉ざされた。


 

 


 顔の見えない誰かに、僕は話し掛けられた。 

「なあ、お前。いつも我慢ばかりで嫌じゃないのか?」

 

 誰なのか解からないのに、何処か安堵させる声をしている。近辺あたりは真っ白な光に包まれていて、自分の居る場所がよく見えない。此処は何処なのだろう。

 

「おい、ゆう」 

 どうやら、この誰かは僕の知り合いらしい。そして僕も、彼を知っているらしい。そんな気がした。彼は僕にとって大事な人であるはずなのに、顔がよく見えない。誰なのかも思い出せない。

 

「だって、あの子のためだもの」 

 無意識に、僕は答えていた。あの子とは、誰のことだろうか。一体、何の話をしているのだろう。

 

「お前のそれ、もはや病気だぞ」 

「あはは、君にだけは言われたくないな」

 

 眼の前にいる彼が大きく溜め息を付いた。僕の性質に呆れてはいるものの、気に掛けてくれていることを、ひしひしと感じられる。だから、僕は安心して往けるのだ。

 

「また、代わりに行くのか」 

「僕が行かないと、あの子が泣いてしまうでしょう」 

「あんなやつのこと、気にすることないだろう。泣かせておけばいい」

 

 僕は、ゆっくりと左右に頭を振る。 

「あの子は、可哀想な女の子なんだ。放ってはおけないよ」 

「なら僕が……」

 

 僕はくすくすと笑いながら、彼の肩をぽん、と叩いた。彼は怒りで少し興奮しているようにも思える。

 

「君が出たら、また問題を起こすでしょう」 

「……そんなことない」 

「どの口が言うのかな」

 

 不貞腐れた様子をした彼の頬を、僕がつねると、腹を立てたようで、彼は僕の手を振り払った。 

「我慢するくらいなら、そっちのがいいだろ」

 

 彼からは必死さを感じた。僕のことを本心から思い遣ってくれている。僕のことを思ってくれる彼の言葉が嬉しくて仕方が無くて、思わず彼を抱きしめていた。

 

「おい」 

 彼がじたばたと暴れる。彼は少し、僕より小さいようだ。彼の頭は僕の胸のあたりにあった。僕はそんな彼が愛おしくて、宥めるように彼の頭を撫でた。 

 何だろう。やけに心が穏やかだ。一体彼は、誰なのだろう。誰かが僕を呼んだ。小さな女の子の声が、僕を呼んでいる。

 

 ――行かなくては。

 

 無性にそんな気がして、僕は彼から離れた。彼は何処か、苦しげで、悲しげな顔をしている。

 

「大丈夫だよ。辛くたって、君がいる」 

 僕はからからと笑った。

 

「本当に行くのか?」

 彼は悔しそうに唇を噛み締めている。

 

「君が傷つくのも見たくないんだ」 

「それは、僕も同じだ」 

「僕はこのためにいるんだよ」 

 僕はそう言うと、その場を離れた。

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