013-A+d+b/Y_混沌(1)


 ああ、そうか。

 僕がいなくなれば。

 僕が死ねば、すべて丸く収まる。

 よく映画で、死ぬときは手首を切っていた。

 あれは痛いのだろうか。


 カッターナイフ。

 いつの間にか部屋の片隅に置いてあった、黄色のカッターナイフ。

 手首に浮かび上がった一筋の血管。


 僕は試しに、切ってみようと思った。




  


「うわあああっ!」 

 悠は勢いよく飛び起きた。


 心臓がバクバクと脈打ち、呼吸が荒く胸が詰まる。冷や汗がじっとりと肌で滲み、小刻みに震える左手の手首がひどく痛んだ。

 

 ――痛い。

 ――痛い。

 ――痛い。


 不意に、幼い女の子の声が耳に入った。

「ハーヴェイ、ねえったら。ハーヴェイ、大丈夫?」

 

 声のした方へ視線を向けると、クレアとデニスが心配そうにこちらをじっと見つめている。

 

 ――あれ。 

 はたと、悠は自分を取り戻す。そしてすぐに少し前にベアード商団の一行が再出発をしたの思い出した。


 此処は荷馬車の荷台の中だ。のろのろと荷台の外を見上げると曇天で、今にも雨が振りそうなほど雲が厚かった。昨日さくじつよりも空気が湿っていて、風も冷たく、山中は霧に覆われている――悠はぼんやりと言葉を落とした。 

「……ゆ……め?」

 

 何か夢を見たような気がする。苦しくて、悲しくて、痛い夢だったような気がする。だがどのような夢だったか、その一端すら悠は思い出せない。痛みを感じた右手首に目を移すと、自分で力強く握りしめたのか、赤く腫れ上がっていた。


 すると、デニスが悠を覗き込んできた。

「どうしたの?」 

 彼は今にも泣き出しそうな程に、目を潤ませている。これ以上怯えさせまいと、悠は笑顔を取り繕った。 

「いえ……。大丈夫、ですよ」

 

「手首でも痛めたの?」 

 と御者席からクレアが声を掛けてきた。

 彼女は悠の右手首をじっと見つめていた。気不味さを感じ、悠は続けて取り繕う。 

「あはは。寝ぼけてしまったみたいで」 

「一体何の夢を見たら、手首をそんなに力強く握るのよ……」 

 クレアが呆れた顔でぼやいたので、「そうですよね」と悠は苦笑いをした。

 

 笑うのを止めるとふと、悠は再び自分の手元へ目を移し、やんわりと自分の右手首に触れた。

「小さいとき、事故か何かで痛めたことがあって」 

 自分で握った際に、爪が食い込んだのか、引掻き傷もできており、やや血が滲んでいる。

 

「事故?捻ったの?」 

 と不思議そうに訊ねるデニスの声をぼんやりと小耳に挟みながら、悠は右の手首を見入った。傷の原因を悠は覚えていないし、誰も教えてくれなかった。だがあおいの体には、幼い頃から手首に一筋の傷跡があった。ついと悠は面を上げ、答えた。

 

「ううん。実は何故かは覚えてないのですが、切ってしまったみたいなんですよね」 

「え、痛そう……」

 

 デニスがその様子を想像してしまったのか、再び涙目になる。悠は慌ててデニスを宥めるべく、「もう痛くないですからね。」と言葉を掛けた。


 やにわに、オリヴィアの声が鳴らされた。 

「ハーヴェイ、昨夜の怪我の具合はどう?」

 

 荷台の外を見ると、何時の間にか彼女は荷台の傍へ馬で駆け寄っていた。

 昨夜の一件で、十数人の冒険者のうち二人が死亡し、さらに重症者が三人と、かなりの痛手をこうむった為、軽症に留まった冒険者たちを荷馬車の間に付け、各自の護衛範囲を広める他なかった。今日はオリヴィアが先頭付近の護衛を担当しているらしい。

  

 悠は急ぎ、昨夜に怪我を負った右腕と左脚を試しに曲げ伸ばしをしてみた。多少はずきずきと痛むものの、歩くには支障無さそうだ。我慢すれば剣を持ち上げるくらいは出来るであろう。 

「だいぶ平気になったみたいです」 

「……相変わらず、気持ち悪いくらいの回復力ね」

 

 悠の回復の速さにオリヴィアが感心したかのような声を漏らした。オリヴィアの言い草を聞くに、どうやら、ハーヴェイの身体は以前から頑丈のようだ。

 悠もこの体の生命力の高さに感服せずにはいられなかった。ちなみに、重症を負った他の冒険者たちは目的地イェーレンに着くまで動けそうにないらしい。

 

「なんであんなに魔獣が群れていたのかしら」 

 とクレアがぼやくと、オリヴィアが「私もあそこまでの群れは初めて見たわ」とが答えた。

 

 悠が眠ったあと、魔獣の死骸を手分けしてあらためたらしいのだが、その個体自体はよく見受けられる手合いだったらしい。


 何と無しに悠は言葉を落とす。 

「よほどお腹でも空かせていたのでしょうか?」 

「この山道はずっと前からよく使われているのよ。そんなことだったら既に死人が出てるわよ」 

 と言い放つオリヴィアに、悠は「そうですよね」と苦笑いを浮かべて答えた。


 港町エルデンを出る際に、この山道に関しては悠も簡単な説明を受けてはいた。この山道は、港町エルデンとクロレンスの首都イェーレンを隔てる山脈を越える際にに最も使用される道だ。

 ここ最近、狼や盗賊が出るようになったという噂が広まっていた為に、ベアード氏はA級以上の冒険者を雇おうとした聞いた。しかし、魔獣に関しては報告を受けたという話は受けていない。


 御者席からベアード氏が言った。

「イェーレンについたら、冒険者組合に報告をあげておくよ」 

 

 ベアード氏のような商人にとっては、この山道は生命線である。エルデンは国内最大の港街と聞き及んでいる。それ故、海外から荷物を輸入するならば、エルデンで取り寄せることが多い。とくに、ベアード氏は舶来物の宝石や雑貨を扱う商人であるため、尚更であろう。

 

「嫌になっちゃうわ。他の道は他にもあると言えばあるけど、遠回りをする道か、整備されていない道かの何方かなんだもの」 

 クレアが不愉快そうな声を零した。悠はこの国の地理に疎い、というよりも全く知らない。だから、他の道が如何に不便なのかも解からない。

 

「そういえば、あとどれくらいで山を抜けるんですか」 

「そうねえ、あと二、三日かしら」 

 というオリヴィアの返答に、悠は気を沈めずにはいられない。あの魔獣の群れがどれほどいるものなのかは知るところでは無いが、また昨夜のような状況に遭遇する可能性が二、三日もあるのだ。


 しかも、魔獣が出現する時間や場所を先読みできないのだ。今こうして歓談している間にもあの獣たちが躙り寄っているかもしれない。

 

「……きっと大丈夫よ。流石に連続して奴らが現れたりしないわよ」 

 悠の憂鬱そうな表情を察したのか、オリヴィアが優しい声音で悠を諭してきた。気を遣わせてしまったようだ。 

「はは……。そうですね」 

「まあ、私もそう願ってるだけなんだけどね。そもそも、昨日のが異例の事態なのだし」 

 

 オリヴィアが肩をすくめてみせると、馬を後退させ、元の位置へと戻っていった。彼女は顔には出さないものの、不安を感じているに違いない。相棒のハーヴェイがこんなにも頼りないのだ。 

 それに何より今、魔獣が現れて欲しくないと一番に願っているのは、オリヴィアのような、動ける冒険者たちであろう。商団の職員や負傷した冒険者や悠のような非戦闘員を守りながら、応戦せねばりならない。その上、戦うことのできる人間の数自体が減っている。

 

 ――申し訳ないな。

 

 年も然程変わらぬ女の子に全てを任せるしかない、自分の役の立たなさに、悠は不甲斐なさを感じた。其れが行き場の無い苛立ちとなり、落ち着きがなくなる。


 悠は左の親指の爪をぎりぎりと噛んだ。

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