012-L_魔獣(4)


 オリヴィアの緊迫した声が耳に届かれた。

「ハーヴェイ、戦ってちょうだい!」

 

 もう、魔獣が目と鼻の先まで迫っている。このままでは、殺される。悠は恐怖で動かない足を無理矢理に一歩前に踏み込ませ、無我夢中で剣を振るった。

 

 刹那。

 

 柔らかい弾力のある肉に当たる感覚と、肉が裂け、血管の切れる耳障りな音がした。一匹の魔獣がギャンッ、という悲鳴を上げてその場に転がった。しかし仕留め損なったようで、血に塗れた体を奮い立てて、その魔獣は再び悠に牙を剥いてきた。

 

「ひっ!」 

 悠はその姿に思わず声を上げると、恐怖で目を瞑り、一心不乱に剣を振り落とす。血飛沫が上がり、その鮮血が悠の全身に降り注ぐ。その血は生暖かくて、鉄臭い。

 

「うっ。おええ!」 

 悠は膝を付き、その場で嘔吐した。逆流した胃液で喉が灼けるように痛い。手のひらに、腕に、顔に、ねっとりとした血液が纏わりつき、どんなに服で擦っても臭いが消えない。

 

 ――気持ち悪い。

 ――気持ち悪い。


 すると、突然痛みが走り、悠は呻き声を上げた。 

「……うっ」 

 いつの間にか数匹の魔獣が悠に伸し掛かり、そのうちの一匹の魔獣が悠の左腿に牙を立てていたのだ。

 

 ――痛い。

 ――痛い。

 ――いたい。

 ――いたい。

 ――いたい。

 

 痛みと恐怖で、頭の中が真っ白になる。

 

 ――死にたく、ない。

 

 ただひたすら噛み付いて来るその魔獣に、自分を取り囲む魔獣達に、悠は何度も何度も剣を突き刺した。その都度に魔獣たちの赤黒い血や肉片が散り、肌を掠める。

 剣が刃こぼれして使い物にならなくなると、腕と脚で襲いかかる魔獣達を組み伏せ、拳で何度も殴りつけた。肌を通して直に感じる、鈍い音と飛び散る血の感触が、更に恐怖心を駆り立てた。

 

 あと、どれくらいの数がいるのだろうか。気が遠のくのを感じた。その矢先。

 

 横から魔獣に飛び付かれ、勢いのあまり悠はその場に転倒した。 

「ぐううううっ!」

 

 悠は我武者羅に、襲いかかる魔獣を手で押さえ、脚で蹴り上げた。手や脚が塞がると、魔獣の鼻面に噛み付いて、必死に魔獣を食い止める。固くて、顎と歯が痛むが、一心に力を込めた。口の中に広がった魔獣の血は生臭い鉄の味がした。

 

 ――くるな。

 ――くるな!

 

 悠は最後の一匹に跨り、何度も、何度も殴りつけた。びくびくと痙攣して動かなくなるまで、ひたすらに拳を振り落とした。

 

「たおれろっ……たおれろっ……!」

 

 ようやく最後の一匹が動かなくなると、体の力が抜け、悠は地面に手をついた。心臓が未だにばくばくと波打っている。冷や汗も未だ収まらない。手もまだ、がたがたと震えている。

 悠の視界の端で、クレアとデニスがお互い身を寄せ合い、肩を震わせているのが見えた。顔は蒼白で、涙を瞳いっぱいに浮かべている。だがしかし、大きな怪我はなさそうだ。

 

 ――良かった。二人とも、無事だった。

 

 安堵した矢先。微かではあるが、誰かの声のようなものが聞こえた。

(……れ……)


 ――この、声。

 何処かで聞いた。そう思った、次の瞬間。

 後頭部に突き刺すような痛みが走った。そしてその痛みは次第に強くなり、頭蓋が圧迫されるかのような感覚に陥る。

 

(……い)


 またあの声が、鼓膜を突く。

 きいんと鳴る耳鳴りが、痛みをより激しくする。


(……っ!)


 

 痛い、苦しい。

 やめてほしい。

 頭が割れそうだ。鼓膜が破れそうだ。


 不意に何処からか、車のクラクションの音が聞こえてきた。それと同時に、ブレーキが地面を掠める音が鳴り響く。


 ――此処は、何処なのだろう。

 

 気がつくと、悠は車の中にいた。全ての音が曇って聞こえる。

 

 するといきなり、視界が揺れた。息が詰まるほどの速度で、体が左に引っ張られる。

 

 視界が迫りくる大型トレーラ車の姿を捉えるや否や、車体は大きく揺れ、どん、という衝撃とともに車窓が大きな音を立てて割れた。反対側のドアがひしゃげたかと思うと、視界が大きく横転した。


 ――音が、よく聞こえない。

  

 水の中から音を聞いているような、そんな感覚だ。近辺から、救急車を呼べ、警察を呼べ、と誰かが叫んでいるのが聞こえてくる。シートベルトと、上から覆い被さる何かの重みで身動きが取れない。


「いたいよう、いたいよう……!」

 

 突として、音が明瞭になった。小さな女の子の声だ。


「いたいよう、いたいよう」


 ――助けに、行かなくては。

 

 そう思って手を伸ばしたいのに、体中が痛くて、痛くて体が動かない。苦しくて、声が出せない。


「いたいよう、いたい……」 


「……」


「…………」


 声が、止んだ。


 どうしたのだろうか。


 返事がない。


 ゆっくりと声のした方を見ると、そこにはぐったりとして動かなくなった、血の気のない妹の姿があった。




 


「……イッ」

 

「……ハーヴェイッ!」

 

 涙ぐんだオリヴィアの顔が、悠の視界に飛び込んだ。

 

「終わった……んですか?」 

「ええ、ええ。全て片付けたわ」

 

 堰を切ったように、ぼろぼろとオリヴィアが大粒の涙を溢し始めた。 

「急に倒れるから、また起きなくなっちゃうんじゃないかと心配したじゃない」

 と言うと、オリヴィアが悠に抱き着く。彼女の体は小刻みに震えていた。


 クレアとデニスも涙を浮かべて、悠のすぐ横に坐して、言葉をかけてきた。

「ハーヴェイ……大丈夫?」 

「痛いところはない?」

 

 悠がこくり、と頷いて見せると、デニスがわんわんと声を上げて泣き始めた。クレアもつられて、嗚咽を漏らし始める。 

 辺りを見渡すと、自分の周囲には、斬り刻まれ、頭蓋を割られた魔獣やその肉片が転がっていた。騒ぎを聞きつけたのか、商団の職員たちが数名、様子を見に訪れ、「魔獣だ、魔獣だ」と騒ぎ立てている。

 

 ――あの声の。

 

 あの声の持ち主は一体誰だったのだろうか。

 

「怪我はない?」 

 と再び声をかけるオリヴィア。悠はのろのろと自身の体に視線を移した。ずきん、と刺すような痛みを感じ、右の腿と左の腕の辺りを見ると、肉が抉れ、血が溢れていた。

 オリヴィアも悠の怪我にやっと気がついたらしい。悠から身を離し、集まって来ていた商団の職員の一人に向かって声を張った。

「すみません。誰か彼の手当をお願いできますか!」


 その職員は悠の惨状を見てぎょっとした表情をしたものの、直ちに「わかった」と答え、道具を取りに天幕の方へと走って行った。

 

「あとは私の方でやっておくわ。あんたはもう休みなさい」

 

 諭すようなオリヴィアの言葉に、悠はこくりと頷いて応じる。立ち上がろうとすると、右腿に鋭い痛みが走った。「う……」

 

「おい、そこ。大丈夫か!」 

「掴まれ、ハーヴェイ!」

 

 苦悶して悠が蹲ると、一人の商団の職員とヒューゴが悠のもとへ駆け寄ってきた。悠は体を支えてくれる二人に礼を言いたい気持ちはあったものの、力が入らず、声を出すことも叶わない。クレアとデニスも大丈夫か、痛くないか、苦しくないかと頻りに声を掛けながら後を付いてきた。

 

「よし、そこに寝かせよう」 

 とヒューゴが言うと、悠はその場に横たえられた。霞がかった頭で横に視線を向けると、同じように横たわっている数人の冒険者たち。

 

「少し痛むぞ」 

 という商団の職員の声を聞いたかと思うと、冷たい液体が傷口にかけられたのを感じ、痛みで悠は顔を歪めた。

 

「消毒用アルコールだ。我慢してくれ」 

「ハーヴェイ、頑張って」 

 というクレアそしてデニスの鼓舞するような声が聞こえたような気がしたものの、悠は滲みるような痛みに、ただ、ただ耐えることに必死だった。ゆえに何も応えられなかった。

 

 ようやっと傷の処置を受け終えた悠は、血でベトベトになった服を脱ぎ捨てた。元の色がわからないほどに赤黒く染まり、その生臭い臭いは気分を悪くさせる。代わりの服を商団の職員に借りたのだが、着替えるのも億劫になり、そのまま毛布の上へ身を投げだした。

 

 ――疲れた。

 

 知らぬ間に、あの頭痛も無くなっている。

 

 天幕の隙間から少し欠けた満月が西に傾いているのが薄ぼんやりと見える。悠は目を閉じ、泥のように眠った。 

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