106-[MID]Y_脱出(2)

 苦しい。

 苦しい……!


 悠はじたばたと暴れた。

 何かが悠の首を強く掴んで締め上げている。上から馬乗りになって圧し掛かり、悠の自由を奪っている。首を掴む力はだんだんに強められ、悠は藻掻いた。このままでは死んでしまう。そう、警告音が頭の端で鳴り響き、悠は全身の力を使って、悠を押さえつけるその何かを突き飛ばした。

「ゲホ……ゲホゲホ!」


 やっとまともな呼吸ができるようになり、悠は咳き込む。爪のようなものでも食い込んだのか、首がヒリヒリと痛み、さらには血が滲んでいる。――これは肉体ではないというのに。悠は左手に付着した血に唖然としながらも、よろよろと顔を上げた。

「いったい何が……」

 

 悠はひゅっと息を呑んだ。自分のすぐそばで尻餅を付いてじっと大きな目を向けているのは、すべてが夜色の幼い少年だった。無論、たまたま其処にいたのだなんて甘い考えは浮かばない。今まさに払いのけた先に彼がいるのだから。

 

 茫然としながらも、悠は声を押し鳴らした。

「……ブラックさん?どうして?」

 

 仲が良かったわけでも、悪かったわけでもない。ブラックは常にこの狭間にいて、ハーヴェイと知覚を共有している間も、あの白い鳥の羽根の一件以外、ブラックの声や息遣いのような気配は一切しなかった。彼は悠のように、外の景色を見て、聞いて、感じようとはしなかったのだ。それゆえに一日の大半、言葉を交わすことすらなかった。

 

 ブラックは白目の目立つ黒い目を見開いて、悠から目を離さない。その顔には表情というものは感じられず、いったい何を考えているのか読ませない。だが不意に、ブラックは小さく、言葉を落とした。

 

「う……あー……しっぱい……した……し、しっぱい……」

 

 失敗。失敗と言ったのか。彼はいったい、何に失敗したと言うのか。悠は愕然としながらも、ゆらりと立ち上がろうとするブラックを見上げていた。

 立ち上がったブラックは、満遍なく同じ星空で埋め尽くされる夜空を見上げた。その目は虚ろ。すべての光を集めて、真闇になった深淵だ。

 

 その暗闇を塗り籠められた眼を悠へ向けて、ブラックはぼそぼそと言葉を続く。

「おれ……ぼ、ぼく……わた、し?がころ……殺さないと。殺すよ、ううん……殺しますよ」 

 やはり、一人称が定まらない。言葉遣いも声色もころころと変容して、まるで同じ人間の中に複数の何かが宿っているように思われた。

 

 すると、おもむろに悠の前に月夜が立ちはだかった。

「ちょーっと外に近づけすぎたかな。とは言っても、今中に戻すのも危ないしなあ」

 と言いつつも、あまり困った様子ではない。呑気に長い濡羽色の髪を搔き上げて、「ううむ」と悩んでいる風の声を溢す。

 

 悠は座り込んだまま、そんな月夜を呆気に取られながら見上げた。

「あ、あの。どういうことですか?」

「あれ?君知らないの?あの子は危険だから、閉じ込められていたんだよ」

 

 閉じ込められていた。そう言えば、ブラックは自分で言っていた。ずっとひとり閉じ込められていたのだと。何故、閉じ込められていたのだろうとは思っていたが……悠は頭が追いつかず、問い返す。

「危険?いったいどういう……」

「色々説明してあげたいけどさ。今はそれどころじゃないし……余裕あるときでもいいっかなあ?このままだと君、

 そう言って、月夜は力強く悠の腕を引いて、担ぎ上げた。小柄で華奢な体の何処にそんな力が秘められていたというのか。

 だがそんな呑気なことを言っている場合ではないことを、悠はすくにさとった。ゆらゆらとゆっくりと歩き寄ったと思えば、勢いよくブラックが突進して来たからだ。

 いったい何処から現れたのだろうか。その手にはカッターナイフが握られていた。黄色いカッターナイフ。何処でも見かける、よくあるカッターナイフだ。

 

 月夜は悠を肩に乗せたまま、軽い口調で悪態付いた。

「まったくもって、美しくもないし、楽しくもないことをしてくれる」

 そしてそのまま、ひらりと高く跳躍。その高さに思わず、悠は声を上げた。

「えええ!?」

 何メートル飛んでいるのだろう。陸上の高跳び選手も吃驚な高さだ。空中で、悠をしっかり手で押さえなかまら、月夜は声を張る。

「口、閉じて。中でも舌噛むと痛いよ!」

 とても呑気な様相のあるが、とてつもなく大事なアドバイス。だがいやでも、悠は口を噤んだ。

 いったいどうやっているのか、今度は急降下したのだ。まるでジェット・コースターだ。絶叫系の苦手な悠は顔を青ざめさせながら、必死に月夜にしがみついた。

 ガンッ!

 着地音は凄まじいものだった。そして其処でようやく、落下は月夜のやったことではないと悠は理解した。月夜が下敷きになって、悠を庇っていたのだが、彼の片足には何かに掴まれたような赤い痣が残されていた。

 悠はハッとして、月夜に声を掛ける。

「大丈夫ですか、月夜さん!?」

「だいじょーぶ、だいじょーぶ。痛たた……急に引きずり下ろすなんて、酷いじゃないか」

 と呑気に答えながら、月夜は体を起こし、それと同時に悠の腕を引いて横へ避けた。

 ブラックだ。

 彼はまるで獣のように、白い歯を黒い体から剥き出しにして、唸っている。だらだらと涎が垂れて、見開いた目が爛々としている。

 チチチ……

 彼の手元にあるカッターナイフの刃が引き出される。なぜ悠や月夜を追い回しているのか理由がさっぱり思い当たらぬが、逃がすつもりはないらしい。

 ――あれ?

 ふと、悠はブラックの色が変化しつつあるのに気がついた。全身、この空間みたいな夜空の色だったのに、うっすらと肌が白くなりつつある。それと同時に、と少しずつ顔の形も変わりつつある――悠はその顔に、見覚えがあるような気がした。

 ――誰、だっけ。

 思い出せない。また、思い出せないのだ。

 

「ちょっと君!」


 珍しくも大声を出した月夜の声に、悠は我に返る。月夜はブラックと対峙しながら、悠の腕を再び掴む。

 

「いい?蓮のところまで走るんだよ」

 

「は!?」

 何を言っているか、わからない。だが、たとえ月夜の表情が見えなくとも、その声から真剣であることはひしひしと伝わってくる。

 

 悠が困惑していると、月夜は穏やかな声で続ける。

「大丈夫。きっと何とかなるさ」

 

 そう言うと、月夜は悠の腕を掴んだままブラックへ突進し――目の前が眩い白い閃光で包まれた。

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