146-Y_虚ろ(1)
「ぐえっ」
蛙が踏み付けられたような声を上げて、悠は大木に叩きつけられた。それはハーヴェイの
足を上にひっくり返った状態で、悠が逆さの視界へ意識を向けると、にっこり笑顔で袖まくりをしているアーサーの姿がある。それは曇りなき笑みのはずなのに、悠には般若に見える。そんな圧のある微笑を浮かべたまま、アーサーは穏やかに無理難題を言いつける。
「言ったでしょう。攻撃を予感したと同時に回避行動を取りなさい。もちろん、ちゃんと身を守るための受け身を取って」
「そんなすぐに、できるわけないでしょう!」
そもそも、それまでこなすステップが多すぎる。まずは攻撃を視認(感じろなんて漫画なことはできない)し、その後に周囲の状況から交わす方向を決める。それでようやく足やら腕やらに脳信号を伝達させ、飛ぶなり転がるなり走るなりする。その着地点でまた、安全を確保する意識を働かせる。
これらを瞬時に。反射的に。
無理だ。
予測して動くには経験則が物を言うし、素早く思った通りの行動するのにも訓練が物を言う。昨晩から習い始めてすぐに覚える。それは何処のスーパーマンだ。人間をやめていると思ってもいい。
だが、この男は容赦情けというものを知らないらしい。悠がまだ体勢を整えていないというのにお構いなく、足を振り上げて来た。
「はい、そこ。休まない。ちゃんと避けて受け身を取らないと、死にますよ?」
「……っ」
声も出ない。なんとか横に転がって躱し、悠は苛立ちを堪えて変わりに内心で叫ぶ。
――殺す気か!
背後は断崖絶壁。
此処はオールトン山脈の一角だ。ブルック隊が首都イェーレンを目指して二日目に突入していた。そもそも出発自体が前日の昼過ぎだったわけだが、その日の夜から、ブルック隊が野営している地点から少し離れ、さらには大きな山道からもずっと離れた崖沿いで悠はアーサーにしごかれていた。
こんないつ落ちるとも知れぬ危険な場所で初心者相手に手合わせとは頭のネジがかなり飛んでいる。
きっと物理学初心者に相対性理論の教科書を寄越し、ヴァイオリン初心者にシャコンヌの楽譜を渡してしまうような、「応用ができれば基本はできる」という吹っ飛んだ教育方針なのだろう――悠はいつの間にか目の前に迫っていたアーサーにギョッとした。
「うわっ」
「はい。手がお留守ですよ」
こうしてまた、地面に叩きつけられるのだった。
一方的的にやられているだけで、もはやなんの特訓なのかすら悠にはわからない。アーサーいわく、受け身を取る訓練らしいのだが、なるほど。感じろ!タイプに教育者は向いていない。悠はふと思いつきで、独り言つ。
「もしかして蓮さんも、けっきょくジェイコブさんに習ってたんじゃあ……?」
その場合、自然と一日で会話する頻度がジェイコブの方が上回ることになる。蓮の言葉遣い(発音)がお上品でないのは、つまはそういうことなのではないか。
何度も叩きつけられてズキズキと痛む腰をさすりながら悠が立ち上がろうとしていると、アーサーが眉を顰めて言った。
「何を一人ブツブツ言っているんですか」
「いや……アーサーさん、て教えるの向いてないって言われませんでしたか?蓮さんに」
アーサーの紫の目が少しだけ揺らいだ。どうやら図星らしい。こほんと咳払いをして後方へ視線を向ける。
「……さあ、皆のところへ戻りますよ」
ああ、そうなんだ、と厭でも伝わるわかりやすさ。今度からはジェイコブに教えてもらおう、と悠は内心で誓ったのであった。
だが野営地に戻るまでもかなり苦労する。
秘密の特訓ということで他のメンバーに見つかりづらい場所、となるのは致し方のないことだが、わざわざ茂み深い獣道を潜り、さらには高さはさほどないとは言え断壁をフリークライミングをして下ってようやく辿り着くような場所まで来て、ただ逃げ回り、投げ飛ばされているだけなのだ。
そしてその結果疲労困憊だというのに、今度は登りのフリークライミングをしなければ帰れないという地獄が待っている。無論、スパルタのアーサーが手助けなぞしてくれるはずもなく、悠は落ちそうになる恐怖と戦いながら、嘆くのだ。
「室内のボルダリングも苦手なのに……」
その横で中年男性がするする登っていくのをみたら、絶望しかない。扱い方を知らぬだけで、ハーヴェイ自体には筋力があるためか、なんとか片手でもぶら下がれたのが唯一の救いである。
さっさと先に行ってしまうアーサーのだいぶ後方で茂みを掻き分けながら、悠は深々と息をつく。
――人に気を遣わないのは親子同じだな……!
血は繋がっていなくとも、養育者の影響とは受けるものなのだろうか。それともたまたま、似た者同士が親子になったのだろうか。
蓮は悠に対してのみ気を遣っているらしいのだが、言葉足らずな上に秘密主義。あれは気遣いではなく、自己満足と言うのだ、と悠は考えている。とにもかくにも、周囲に対する蓮の態度は不躾で無愛想と称されるだけはあり、気遣いなんてものはない。そしてアーサーは、周囲にどう思われているのか悠はちっとも知らないが、途轍もなく自分本位的に見えて仕方がない。紳士的に見えるぶん、なおさら質が悪いかもしれない。
置いていきますよ、と振り返りざまにアーサーが一声掛けてくるも、悠はもはや追いつけそうになく、
「……道覚えてますから、先行ってください」
と言葉を返した。
とは言ったものの、悠はそれでもなんとか食らいつくようにアーサーを追っていた。クロレンスで遭難は洒落にならない。GPS衛星のある現代日本のなんと便利なことかと悠はひしひしと技術の素晴らしさを痛感する。……GPSがあっても、山の遭難は危険なのだが。
ようやく見覚えのある山道が見えてきて、悠は立ち止まり、ふと考えた。
――日本は、どうなったのかな。
それだけではない。中の様子すらわからない。何度か呼びかけてはみたものの、誰の返事もないのだ。
二階にいるのか、はたまた日本側にいるのか。それとも実は不通になっているのではないかと時おり不安になるが、呼ばれてもいないのに戻ってもよいのかという葛藤が悠を此処に留めている。
すると不意に背後から、腕が何かに掴まれ、悠はハッとして振り返った。
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