140-Y_窓と扉(3)
次の瞬間、悠が見たのは白い天井である。燦々と差し込む朝日が眩しい。あまりの目映さに手でひさしを作り、さらに目を細めた。
するとやにわに、頭上から影と声が落とされた。
「おや。目を覚ましましたか?」
覗き込んでいるのはグレイの髪の男、アーサーだ。よく見れば、其処は無駄に豪奢な内装の部屋の中。つまりは宿の個室なのだが、その室内の床に座り込む形で、ハーヴェイは養父に抱き抱えられている状態であった。
悠は上体を起こして、すぐにズキリと額が痛むことに気が付いた。
「
何処かにぶつけたのだろうか。悠は長い黒髪を搔き上げて瘤を押さえる。きっとすぐにハーヴェイの中身が蓮ではないと気取っていたのだろう。アーサーはまったく驚いた素振りもなく、くすくすと笑って言葉を継ぐ。
「あの子が盛大に転倒しましたからねえ」
「え?」
「数分で戻ると言って、そのまま」
「蓮さん、何やってるんですか……」
おそらく、否、確実に蓮は安全も確保せずに中へ引っ込んだのだろう。住人が誰一人とも窓を潜っていないと、肉体は文字通り魂が抜けたように制御不能になる。傍目には睡眠を取っている状態に見えるらしいのだが、外から見ることのできない悠には何とも言い難い。
すっと立ち上がり、アーサーはテーブルのそばへ歩き寄ると穏やかな声で切り出した。
「さて。どうして君が出てきたのか
「厭です。後で息子さん本人に聞いてください」
「ようは知らないんですね」
ばっさりと図星をさされ、悠は顔を顰める。この男に誤魔化しは無用であろう。ぷいと顔を背けて、悠は言葉を吐き返した。
「腹立たしいことに、ちゃんとした理由は言ってくれないんですよ。あのチビっ子は」
「しばらく君が出てる予定で?」
「さあ……。半強制的に放り込まれたもので」
運がいいのか、一応このあとの任務の内容等を知っているので戸惑いはしない。が、それだけなのでこのあとどうすべきかと悠は内心冷や汗である。
それでもせめて顔に出さないようにと悠が顔を強張らせていると、アーサーはにっこりと圧のある微笑を向けて言った。
「じゃあしばらくは、しごきがいがありますね」
「……」
沈黙しかない。確かに蓮に、戦う術を教えてほしいと願い出はしたが。だが、父親としてまず言うべきことかあるのではないか。その神経を疑わずにはいられず、悠は思わず眉を寄せる。
「……ここにはいない息子さんは心配にならないんですか?」
いつ戻って来るのか、そもそも戻って来るのかすら定かでない。この男は住人たちにも死の概念があるのだと知らないのかもしれぬが、それでも不滅という確証もない。
だと言うのに、アーサーはふっと柔らかに微笑むことを絶やさない。
「あの子はしぶとさだけはありますから」
それは確かに、そうかもしれない。だがそれでも、不死というわけでもなければ無敵というわけでもない。
――いや、僕さえいなければ。
自分さえいなければ、彼は無敵かもしれない。何故あんなにも、こんな取るに足らないつまらない存在のために献身的になれるのか、悠からするとちっとも理解できないのだが。悠は顔を歪め、独り言つ。
「……そうやって信頼されるって羨ましいですね」
「違えよ。こいつら
だしぬけに、背後から三人目の声が鳴らされる。
振り返れば部屋の扉が開かれ、熊のような大男が姿を現していた。まさかこの男まで、ハーヴェイの事情を知っているとは露知らず、悠は驚きを隠せない。
「……思ったより、蓮さんは味方が多いんですね。普通は受け入れられないと思うんですが」
住人たちは隠しているように思われた。
精神医学も心理学も発達していないクロレンスでは
ふと、悠は考えた。
そもそも蓮は、他者から否定される経験をしたことがないのではないか、と。
クロレンスではアーサーとジェイコブ、日本では淳一郎と美琴がいる。人間関係に興味のないあの少年のことだ。格段これといった努力も工夫もしていないだろうに、彼は何処へ行っても認められる。それは羨ましいことだ。
悠が訝っているのを見て愉快に思ったのだろう。少しだけ苦笑交じりに嗤うと、ジェイコブは扉を閉め、悠のそばへ歩き寄って言った。
「まあ、俺等は特殊っちゃ特殊だよ。ちなみに俺にバレてるのはあいつ、知らねえから秘密な」
「なんでですか」
問い返さずにはいられない。知ってるなら知ってる、認めているなら認めていると言ってやればいいのに。味方がいることは良いことではないか。理解できない、という表情の悠を前に、ジェイコブは小さく嘆息して続けた。
「言ったろ。意地っ張りな奴らだって。そういう奴って影から見守る担当も必要だろ」
さらに悠――ハーヴェイの頭を力強く撫で回す。悠はそのゴツゴツとした大きな手を払い除けた。
「……よくわかんないです」
「おうおう。お前さんで
「四人目……?」
蓮と悠。その他にも二人。悠には一人だけ、思い当たる者がいた。
「蓮さんと、僕と……後は誰ですか?」
「レン?誰だそれ」
ジェイコブが眉を顰める。彼もアーサー同様に、蓮の名を知らなかったらしい。悠の代わりに、アーサーが静かな声で応えた。
「私たちとよく話している、あの子のことですよ」
「へー。知らなかった。てかあいつらって名前あんのか」
悠は顔を顰めた。名前がないと思っていたほうが、悠としては信じられない。
「残りの二人も名乗らなかったんですか?」
「
とジェイコブが間延びした声で答える。それで本名が気にならないのが、不思議でたまらなず悠は閉口した。彼らはスパイ映画の住民だったりするのだろうか。
だが悠はふと考える。
――まあ、確かに。
中のネームプレートにある名が住人の本当の名だという保証はない。あのネームプレートがそもそもどうして現れるのか、そして書き換わるのか。あの名が何を指し示しているのか。何一つわかっていない。ある意味、あのネームプレートに記された名もコードネームみたいなものだ。
――誰も、僕自身ですら、知らないんだ。
悠は目を伏せ、左の親指の爪を噛む。
その、常のハーヴェイならばしない行動をする悠を見て、ジェイコブは僅かに眉を寄せた。
「アーサーが聞かねえから俺が聞く。メインでハーヴェイやってるヤツは無事なんだな?」
爪から口を離し、悠はじろりとジェイコブを睨んだ。彼らもけっきょく蓮が大切で、赤の他人である悠には興味がないのだ。
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