039-[IN]Y_一新(1)


 ベアード商団の一件が終わって、二日の時が経った。外での活動を主に蓮が担い、中から紫苑や悠が補佐をするという生活に変わりつつあった。

 

 慌ただしい日々が過ぎ、気分が落ち着きを取り戻し始めると、次第に一つの考えが悠の中に、ふつふつと湧き起こるようになっていた。


 ――結局僕は


 蒼も、ハーヴェイも自分の体では無く、自分の知らぬ「誰か」のものであった。つまり思考をするこの脳も、自分とは何の関係も無い赤の他人のものなのだ。

 

 では、「悠」という存在は一体何処から来たのであろうか?

 

 その疑問は神秘的で摩訶不思議な人間の心への探究心をくすぐる一方で、筆舌に尽くしがたい、漠然とした不安を感じさせた。


 ――深く考えるのは、止そう。

 悠は思考に蓋をするようにして溢れ出る疑問と憂いを押し留めた。そしてゆっくりと目を開き、寝台ベッドの上から、部屋を一望した。


 此処はの二階にある、悠の部屋の中だ。小さな書斎のような一人部屋で、悠の好みを押し込めた様な場所だ。

 まずは本だ。この部屋の中には、小説や専門書がびっしりと並べられた書架がある。すべて読んだことのあるものだが、哲学好きの悠には堪らないものたわ。

 それに加え、インテリアもまた、悠の好みであった。白い布団の被せられたふかふかの寝台に、落ち着いたダークブラウンのカーペット。寝台の横にはクラシカルな机と、小ぶりなブラックブラウンのソファ。窓はないが、不思議とそれは気になることはない。


 仕組みは今ひとつよくわからぬのだが、新しく中の人が家に入ってくると、間も無くして部屋が出来るようになっているらしい。部屋が増えたり減ったり、その時々で家の大きさ自体が変わるそうだ。

 時には相部屋になったり個室になったりと個室の定員も変わるらしい。部屋の中の内装が急に変わったり、家具の位置が変わったりすることもあるのだとか。


 キイっと音を立てて部屋の扉が開かれると、紫苑がひょこりと顔を出した。

「やあ、おはよう。ユウ」 

 相変わらず勇ましそうな女である。着ている服は白いブラウスに黒いパンツという何処にでもある服なのに、大きな胸と尻、そして発達した肩や腕の筋肉が凛々しさを醸し出していた。

 

「おはようございます」 

 悠は笑顔を浮かべ、彼女に挨拶を返した。紫苑の手にはサンドウィッチとミルクティーを置いた盆があった。


 不思議なことに、中では食事もするのだ。実際は何も食べていないのだろうが、味覚も嗅覚も触覚もある。満腹感を感じることだってできる。ただし、なぜかダイニングテーブルがないので、個室かソファで食事を摂ることが多い。あと、食材は突然湧いて出てくるという不思議仕様である。

 

「わあ、美味しそうです」 

「一緒に食べようか」 

「はい」

「此処にはだいぶ慣れたかい?」 

「はい。陽茉ちゃんも可愛いですし、紫苑さんは優しいですし……蓮さんは、……個性的ですし、毎日が楽しいです」

 

 外では現在、オリヴィアとハーヴェイは長期の休みを取っている。ハーヴェイの傷の具合がかなり酷いので、暫くの間激しい運動を禁じられているのである。オリヴィアはそのお目付け役なのだ。 

 一方で、悠は専ら、中で過すようになっていた。中では、本を読んだり、紫苑たちと会話したり、ミルクティーを淹れたりして過ごしていた。後はただひたすらに窓の外を眺めて、蓮のハーヴェイとしての生活を眺めていた。


 抑揚がなく穏やかで、境遇を共にする者たちが傍に居る、身の安全を約束された日々。


 ――だから、こんな考えは、贅沢だ。

  

 今の自分は、自分の好きなことを隠す必要がなく、皆が自分を本当の名前で呼んでくれる。その上、静かにしたいと思って部屋に籠もっていると、そっとしておいてくれる。

 

 だから、ずっとに居る自分は、何者なのだろうかだとか、体を持たぬ自分は本当に〈自分〉と名乗り得るのかだとか、そんな余計なことは口にしてはいけない。こんなにも恵まれているのだ。これ以上に何かを求めるのは、虫が良すぎるというものだ。――悠は密かに左の親指を噛んで気持ちを落ち着けた。

 

 そんな悠に気づくことなく、紫苑が苦しげに笑って言った。

「レンにもきっとそのうち慣れるよ」


 蓮に対してだけお茶を濁したような表現をしていた言葉を聞いたためであろう。蓮が殆どで暮らしているのもあり、悠は蓮に対してだけ、なんと形容すべきか思いあぐねている。人を形容するには、交わした会話の数が少な過ぎるのだ。

 

「そういえば、日本側の家にいる皆さんはこっちには来ないんですか?」 

「来るときもあるよ。みんな気分で行き来しているからね……まあほとんどは個室に籠もってるけど」

 

 へえ、と悠は呟いた。

 実家にいる頃は、蒼のふりをして他人との接触を断ってきた。折角、大学生活で他人との関係を作ろうとした矢先に交通事故に会ってしまった。そんな悠にとって、気兼ねなく意思疎通コミュニケーションを計れる場があることは、恵まれたことであろう。

 

「お、お、おは、おはよう……」 

「やあ、おはよう。マリ」 

 部屋の扉へ目をやると、陽茉も部屋へ訪れていた。どうやら悠の部屋は、どの中の人の部屋よりも整っていて落ち着くらしい。まだ他の人の部屋には行ったことがないので、そのうちお邪魔しようかなと悠は考えていた。

 

 陽茉はおどおどとしながら、悠の横に腰掛けた。長い前髪の奥で照れた笑顔をみせている。陽茉も悠にだいぶ慣れ、蓮がいない間はこうして時折、悠の部屋へ遊びに来た。

 

「……あれ。蓮さん、てもう外に出たんですか」 

 ふと、蓮のことを悠は思い出し、紫苑へ視線を向けて訊ねた。確か、今日はオリヴィアがハーヴェイを朝食に誘っていたはず。悠の質問を聞くや、紫苑は顔を青ざめさせた。すっかり忘れていたのだろう。

 

「あれ、今日だっけ。オリヴィアちゃんとレンが約束してたのって」

 と少し裏返った声で、紫苑が問い返す。

 

「はい。そのはずです」 

 まずい、と言って紫苑は慌てて寝台から立ち上がった。

「あのお馬鹿さんを起こしに行くよ」

 

 とかなり焦った様子で紫苑は言うので、悠も紫苑と一緒に一階へ降りて行った。

 

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