154-Y_研究院(5)


 助けて。

 切実そうな紫苑の声に、悠は眉を顰めた。

 

(紫苑さんは陽茉ひまりちゃんとあおいを任されていたのでは?)

(そうなんだけど、ええと。ああ、もう!次から次へと事が置きすぎていて説明できない!とにかく、このままだとレンとヨナスが不味いんだよ!)

 

 明らかにパニックを起こしている。その切羽詰まった様子からして後回しにするのもあまりよろしくなさそうである。悠はどうすべきかと焦りに焦り、とにかくこの場から離れることにした。 

「悪い、用事ができた。先に始めていてくれ」

「は?ちょっとハーヴェイ。何処に行くのよ!?」

 

 困惑したオリヴィアの声が背後より鳴らされるが、構わない。捕まるより先に悠は走り出していた。一瞬、アーサーの伸ばした手に捕まりそうになったものの何とか紙一重に躱し、悠は階段を下った。行き先は決めていない。とにかく中との会話に集中できるような、人の少ないところがよいとだけ考えていた。

 研究院の別棟五号館を出て裏手に回ると、だだ広い芝の庭と面にあったような薬草園が広がっていた。その向こうにはぽつんと屋根付きの井戸。さらにそのそばには温室のようなものが設けられていた。

 こじんまりとした、遊牧民の使う天幕みたいな建物だ。異なるのは、張り巡らされているのが硝子ということだ。悠は無意識に、その温室へ足を向けていた。扉も格子の硝子でできており、手前に引いてみると簡単に開いた。

 

「植物園か……」

 我知らず悠は独り言つ。

 

 其処は、クロレンスでは見かけない色鮮やかな草花や樹木が所狭しと植えられている、いわゆる植物園であった。ふらふらと中へ入って行くと、人影はない。ちょうどいい、とばかりに悠は一風変わった、枝から肉厚な葉を垂らした大樹のそばで立ち止まり、中へ声をかけた。

 

(本題に戻りますけど、紫苑さん。いったい何があったんですか?)

 紫苑は、つい先程見てきたことをかい摘んで語った。用事があって中へ戻ったこと。クロレンス側の二階で、蓮とヨナスが奮闘していること。その何かは強く、あの蓮ですら苦戦していること。いったいそもそも、なんで中に用事があったのかはけっきょく不明なままだが、とりあえず今のところはさほど問題ない。

 

 それよりも、悠はひとつ気になった。

(それ、僕が行ってどうにかなりますかね) 

(そ、それは……微妙)

 

 彼女も混乱して、冷静さを欠いていたのだろう。はたと気付かされたらしく、ううむ、と唸っている。住人たちはとにかく戦闘能力に欠ける。否。日本で過ごしてきたのならば当然のことで、蓮が異例なのだ。

 悠もその異例にならおうとはしている。が、たったの数日間、悠はアーサーの目的の不明な特訓を受けた程度で身に付くはずはなく、戦力としてはけっきょく、紫苑とさほど変わらない。

 

 とは言えど、放っておくわけにもいかないのも事実だ。その何者かが窓まで辿り着いてしまった場合、窓の向こうにいる悠が無事に生き残れるという保証はない。

 

(とりあえず紫苑さん。こっち、来てください。どうするか少し話しま……)

 話しましょう、と言おうとして視線をずらしたところで、悠は目を剥いた。心臓が飛び出たかと思ったほどに驚いて、口を開けたまま固まる。

 

 いつの間にかすぐ横に、木からぶら下がって手を振る浮浪者のような男がいるのだ。しかも普通にぶら下がっているのではない。足でしっかりと枝を掴み、腹筋と背筋をフル活用して上体を起こして海老反りになっているのである。

 

「……ロルフさゆ。いちおう、何をしているのか伺ったほうがいいですか?」

「そんなネタの解説みたいなツマるナイこといるないですヨ」

 

 よっと、と声を鳴らし、上体を大きく振って木から飛び下りるロルフ。笑いのネタ以前に、宴会場でもない場所で三十半ばの男が体を張って嗤いを取りに来ているこの状況がまったくもって嗤えない。いったい何がしたいのだ、この中年男は、と。

 

「あの。僕いそがしいんですけど」

「別に構ってホシイなんて言うないですヨ」

「え、じゃあ何しに来たんですか?」

「君の中でワタシは何になっているですたか」

 

 おそらくどんなイメージなのか、と問うているのだろう。悠が目だけで、酷評してもよいのか?と返すと、君はもう少し目上を敬えと怪しい文法で返された。ならば、年上らしい行動をすべきではないか。悠はそう言葉を言いかけて口を噤んだ。こんなことをしている場合ではないのだ。

 

「其処にいても構いませんが、変なことはしないでくださいよ」

「ワタシはいわば。気にせずどうぞ」

 

 見物人、と言いたかったのか。さっぱりよくわからない。見物人と言葉を直してもあまり気分がいいものではないが――彼も一応パーティーメンバー。アーサーがいてもよいと許した冒険者なのだから近くにいても危害を加えられると言ったような問題はあるまい。悠はロルフを気にしないことにして渋々その場に座り込み、目を閉じた。

 

 次の瞬間。悠は狭間ですぐに意識を覚醒させた。

「……紫苑さん、お待たせしました」

 

 其処は一面夜空の空間。悠のすぐそばで、筋肉質な栗色の髪の女が立っていた。彼女も以前の蓮同様、狭間が初めてのようで落ち着きなくきょろきょろしている。その腕の中にはウサギのぬいぐるみ。悠は彼女とぬいぐるみしかいないことに目を瞬かせた。

「あれ。陽茉ひまりちゃんは?」

 

 紫苑はうっと言葉を詰まらせ、目を泳がせた。

「あー、えと。あおいの方に……」

「え。陽茉ひまりちゃんだけで?」

「大丈夫だよ、うん。安全は確保しているし」

 危険だから戻るなという指示を破ってまで戻った急用なのに?と悠は首を傾げる。

「ぬいぐるみは連れてきたんですね」

「ハハハ、うっかり持ってきてしまったんだよ」

 

 思いっきり誤魔化しているのがわかりやすい焦りようである。悠が訝るように紫苑を見つめていると、紫苑は目をそらしたまま、空笑いをしている。怪しさ満載である。

「まあ、そうなら別にいいんですけど……」

 

 今は陽茉ひまりが何処にいるかは問題ではない。そう理解しつつも、紫苑の挙動不審さはどうにも気になってしまう。悠はおのれの両頬を叩き、なんとか紫苑の挙動から意識をそらした。

「とにかく。どうするか、作戦会議をしましょう」

 その言葉に紫苑も空笑いを止め、うんと首を縦に振った。

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