068-[IN]S/d_混沌(2)


 陽茉とともに紫苑が二階へ上がると、すでに蓮は悠の部屋へ踏み込んでいた。

 

 確かに鍵の閉められていたはずの扉は開け放たれ、部屋へ入ると妙に荒らされていた。

 

 羽毛の布団やブラックブラウンのソファは引き裂かれ、羽根や綿が飛び散っている。書棚の本は目茶苦茶にひっくり返されて、ページが破られて破片となっている。

 あの穏やかな悠がこんなことをするはずがない。第三者が侵入して散らかした、という方が信じやすい。だが、それでは――誰が侵入したのだ?外にはずっと陽茉がいた。無論、臆病な陽茉がこんな強行に及ぶはずがない。蓮に目を付けられたら痛い目を見ることくらい、紫苑を見て知っているはず。

 

 では、いつ、誰が何のために?

 

 考えても考えても、答えは出ない。そしてそんな後味の悪い荒れ果てた部屋の真ん中に、悠の姿はあった。

 ぽつんとひとりで、だ。背を向けているので、どんな顔をしているのかわからない。ただ何かを手に持ったまま、立ち尽くしている。

 

 紫苑はその手元をじっと見つめた。

 おそらく手紙だ。質素な白い封筒に、黒い便箋。よく見ればその白い封筒の封には鳥の形をしたシールが貼られている。尾の色が三色に塗り分けられた、変わったシールだ。

 紫苑はそのシールを何処かで見たような気もするのだが、何処だったのか全く思い出せない。ただ言えることは、蓮がその手紙を持ったまま、びくりとも動かないことだ。

 

 紫苑はおそるおそる、蓮に声を掛けた。

「レン、どうしたんだい……?」

 蓮は返事をしない。不用意に近寄ればまた、首を締め上げられるかもしれない。そんな恐ろしさはあったが、それでも蓮のそばへ寄り、紫苑はなおも言葉を続ける。

「と、とにかく。落ち着こう?ユウ、もしかしたら日本側にいるかもだし……」

 

 ぐしゃり。

 

 蓮が封筒と便箋を強く握りしめた。蓮の肩がふるふると震えて、何かを堪えているようにも見える。ただそれだけの仕草なのに、何処となくおどろおどろしい何かが感じられて、思わず紫苑は一瞬押し黙る。

 

 張り詰めた静寂。

 

 そんな静けさが彼らを包みこみ、息をすることすら厭わせた。

 

 するとやにわに、ぐらり、と蓮の体が大きく傾いだ。まるで全てがスローモーションに感じられ、紫苑は反応が遅れた。陽茉が「お兄ちゃん」と珍しくどもらずに叫んだことでハッと我に返り、床に叩きつけられる寸前で蓮の体を支えた。

「ちょ、レン!?どうしたのさ」

 返事はない。全身の力を紫苑に預けたまま、小さく呻いた。

「……う」

 もしかすればまた、嘔吐感か。そのまま紫苑の腕の中で蹲り、口元を覆う。嗚咽のような音を鳴らす都度に震わされる華奢な体はまだ熱い。否。先ほどよりずっと熱い。多量の汗を掻いて、顔が土色と酷い。悪化しているのだ。ぜえぜえと呼吸音の荒く、何故立っていられたのか不思議なくらいだ。

 

 さすがにこれでは、たとえ外との疎通が戻ったとしても、ハーヴェイとして活動するのは難しい。紫苑は蓮をなだめるように肩を掴み、説得するように言葉を鳴らす。

「レン、君は休むべきだ。こんなんじゃ、死んでしまうよ。ぼくたちに死の概念があるのかはわからないけど、さすがに見過ごせない。後はぼくたちがやるから、君は……」

 

 だが、蓮は紫苑が言葉を続けることを許さない。紫苑の腕を強く掴み、睨め付けて一喝した。

「黙れ!」

 

 その獣のごとき咆哮だ。その勢いに、紫苑は息を呑んだ。黄金こがねの眼は焔を絶やしていない。高熱で潤み苦しげだが、獲物を捕らえる猛獣のように爛々と光らせている。

 紫苑の腕をさらに強く掴み上げると、蓮は吠えるように荒げた声で言葉を続ける。

が彷徨いてんだ!お前らなんかにどうにかできるかよ!」

 蓮の言葉に、紫苑は目を見開いた。蓮がこういうときに憎しみを込めて「あいつ」と呼ぶのはひとりしかいない。紫苑は声をわななかせながら、問い返す。

「あいつ、てまさか……やっぱりあの人、近くにいるのか?」

 

 ――ということは、もしかして。

 紫苑は茫然とした。

 その傍らで、蓮は紫苑から手を離し、悔しげに何度も拳を床に振り落としていた。この様子からして、悠の姿がないこともきっとが関わっているのだろう――そうでなければ、こんなに蓮が荒れるはずがない、などと考えるが、励ますような言葉も思い付かない。紫苑は今、別のことで頭がいっぱいだった。

 

 何度も、何度も蓮は叫んだ。

「クソ……!クソ!」

 

 声が枯れるのではないかと思われるほどに。時おり吐きそうに喉を掻きむしり、それでも吐けなくて、さらに苦しんだ。

 

 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。

 

 蓮は目を見開き、その嘔吐感で首に爪を立てた。ぎりぎり、ぎりぎりと爪が肉に食い込んで、中だというのに、その皮膚の裂け目から血が溢れだす。

 そしてふつり、と動くのを止めた。どんなに求めても、藻掻いても、此処に彼はいない――きっとそのことに気が付いたのだ。

 

 蓮は力なく床に蹲り、小さく、弱々しく声を落とした。

「これ以上、奪うなよ。なんでいつも、あいつなんだよ。なんでだよ。連れて行くなら、俺にしろよ」

 

 どうして、どうして。

 

 そんな切なる声がぽつぽつと部屋の中に落とされる。もしかすれば、泣いているのかもしれない。声も体も震えて、項垂れたまま、少年は顔を上げない。きっと陽茉はそんな少年を泣いていると思ったのだろう。心配そうにきゅっと唇を噛み締め、ずっと少年に寄り添っていた。

 

 だが。

 

 紫苑だけは、ほくそ笑んでいた。笑ってはいけない、とわかっているのに、口角が上がってしまう。喜びなど、感じてはならないと頭では理解しているのに、胸が高鳴っている。

 

 ――あの人、近くにいるのか?

 まるで初恋のときめきだ。そんな早い鼓動にひとり酔いしれた。



  


            ✙




 

 

「こっちだよ」

 そのひとは、優しい目を向けて笑った。


 清らかで、穏やかなひとだ。

 その人は澄んだ琥珀こはく色の目を細め、夜空を閉じ込めたような柔らかな髪をなびかせて、微笑んでいる。靭やかな足で大地を踏みしめ、くるくると軽やかに舞う。

 あのひとほど、美しいひとを知らない。

 誰よりも美しく、そして手の届かない花。だからこそ、求めて止まない。

 その人はこちらの両頬を白く小さな手で包み込むと言った。

「どうしたの?そんなに悩んだ顔をしてさ」

 小鳥みたいな、ころころとして愛らしい声だ。このひとがきゃらきゃらと笑うと、胸があたたかになって、全ての悲しいことや苦しいことが無くなるみたいだった。

「笑いなよ。わたしたちには、いつだって笑って過ごせる自由が与えられているんだよ。だから――楽しいことを考えようよ。きっとすべて、何とかなるからさ」

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