069-W_混沌(3)
悠はぼんやりとした頭で前方に開ける蟲の海を臨んだ。
深く思考しようとすると、もう一人の自分が「そんなこと、どうでもいいじゃないか」と囁くのだ。逆らえない。その見えない意志に、逆らえない。
きっと勘のいい娘のことだ。オリヴィアもきっと、違和感を抱いているに違いない。ことに、ハーヴェイのこととなると、その奇妙さを無視できまい。先ほどは言いくるめて押し黙らせたが、矢張りと言うべきか、不服そうにちらちらとこちらを見ている。
――放っておけばいい。
――そうだね、放っておけばいい。
悠はその心の声に従い、考えるのを止める。今はとにかく、この外に出なければならない。この蟲の巣窟が何のためにあるのか定かではないが、あまりのんびりしていると、水が尽きてしまう。
――死んじゃったら元も子もないしね。
それでは、
(…………っう)
(……しろ、……っ!)
ふと、悠は足を止めた。
頭の奥から、別の声がする。それは何度も、何度もこちらへ呼び掛けている。きっと、
――必死だなあ。
何度呼んだって、応えてやるつもりはないのに。代わってしまったら、
――彼は、何処までを「僕」と考えるのだろうか。
そばにいてくれればいい、と彼は言った。それはどんな「悠」を「悠」として許容して発言しているのだろうか。姿形程度ではきっと認めると言い張るに違いない。現に、
では、心の形は?
少しずつ中身を
「ねえ、ちょっといい?」
突然に差し込まれた少女の声に、悠は振り返った。
後ろを歩いていた炎髪の少女は気不味そうに、ちらちらと悠を見て、何かを言いたげにしている。何となく聞きたいことは察していたが、あえて悠は蓮の真似をして尋ねる。
「……どうした?」
オリヴィアは一瞬怯むも、おずおずと言葉を続ける。
「その……変なこと、聞くけどさ」
途切れ途切れで、語尾が弱い。まあ、聞きづらいだろう。傍目にはあまりにも馬鹿馬鹿しいことを確認しようとしているのだから。
オリヴィアは何度も口を開いては閉じ、悩みに悩んでいる。本来は彼女の覚悟が定まるのを待つべきだろう。だが、付き合ってはやらない。悠は
「用事があるならさっさとしろ」
それは蓮であればきっとこう言うだろう台詞だ。そのいつも通りに聞こえる返し方に、オリヴィアは困惑していっそう聞きづらそうにしている。勘違いだったのかもしれないという考えが、彼女の決心を揺らがせている。
――馬鹿だなあ。気づかないフリをしておけばいいのに。
そうすれば、見た目だけでも、幸せ気分に浸れただろうに。余計なことに首を突っ込めば、
内心で、悠は嘲笑った。
彼女がハーヴェイに、蓮に恋をしていることくらい、蓮以外の誰でも知っている。
さり気なくハーヴェイを目で追い、ハーヴェイがいつも通りでないと誰よりも不安そうにしている。でも素直でないので、ツンケンしてしまう――気が付かないほうがどうかしているくらい、彼女は分かり易い。
オリヴィアは手を弄び、言うか言わないかと葛藤していたようだが、聞く方に決心を固めたらしい。きっと碧い目を悠へ向けて、問い掛ける。
「あんた……ハーヴェイ、よね?」
そこまで言い切って、オリヴィアは慌てたように言葉を加える。
「いや、馬鹿だなあとは思うのよ?けどたまに前にはなかった癖が出てきたり、いつもとなんか違う反応したりして、なんか気持ち悪いのよ」
きっと蓮ならば、「は?馬鹿じゃねえの?」と返しただろう。そしてきっと彼女もそんな返答を期待していたのだろう。
だが、悠は応えない。じっと後方を見据えたまま、黙した。
――やっぱり、こっちに来ちゃったかあ。
ハーヴェイの五感は野生の獣並みに鋭い。ゆえに、悠はだいぶ前に、その異音に気がついていた。ごうごうと空気を打つ音。それは次第に近寄っていたのだが、結局は遠ざかることがなかった。
悠はぐいっとオリヴィアの腕を引き寄せ、低く言い放つ。
「――伏せた方がいいぞ」
「へ?」
オリヴィアの間の抜けた声が返される。きっと彼女は疑問をぶつけることばかりに気を取られていたのだろう。悠はそのまま無理矢理オリヴィアを地面に伏せさせた。
すると、頭上を黒々とした何かの群れが通過した。あまりの大群で、蛍もどきの光が届かずその輪郭はよく視えない。言えることは、羽か何かで空中を移動する生き物だ、ということだけだ。
突然に現れたその群れに、オリヴィアはぎょっとして声を上げる。
「は!?なにこれ!?」
すると、その群れはわずかに向きを変えた。悠たちの方角に。悠は何となくこれは不味い、と感じた。そしてきっとオリヴィアも。その群れのなす何かは薄っすらと殺気のようなものをこちらへ向けたのだ。
悠はオリヴィアの腕を掴むと低く、
「走るぞ」
「もちろんよ」
蒼然としてオリヴィアは応じる。
ふたりは姿勢を低くしながらも、走り出した。
矢張りと言うべきか、その群れは一斉に襲い掛かってきた。危険な何かと思われて襲われているのか、ちょうどいい餌的な何かと思われて襲われているのか判別付かぬが、それらは羽を広げ、臀部の針を向けて迫ってくる。
奇妙な生き物だ。頭部は蛾、胴部は蜂、翅は蝙蝠。漫画や小説で言うキメラみたいだ――ようやくくっきりとその姿を捉えたのだが、のんびりしていられない。悠はその針を躱し、振り切るべく速度を上げる。猛毒を持っていたら大変困る。
ある程度距離を保つと、オリヴィアは嘆くように叫ぶ。
「もう、何なのよ!」
「知るか。とにかく走れ」
「わかってるわよ!」
未だに背後からはごうごうと轟音が響かれている。あの飛行生物の群れが空気を揺らす音だ。ぴったりと後ろを付けられて、なかなか距離を引き離せない。それには理由がある。
オリヴィアがまた、嘆きの声を上げる。
「ああ、走りづらい!」
地面がびっしりと蟲が敷き詰められていて、足場が悪いのだ。踏み抜いて潰すと、それがツルツルと滑って誤って蹴躓きそうになる。お陰で全力で走れない。悠は時おり後ろへ振り返りながら、確信する。
――このままでは追い付かれるな。
逃げる以外の方法を考えねば。前方を見れば、タコ足に細い道が分かれている。何処かへあの群れを誘導できればいいのだが……悠は咄嗟に、蟲の合間に見えた小石を拾った。土砂の中によくある、何の変哲もない小石だ。
――少しは怯んでくれるといいんだけど。
速度は落とさず、悠は振り返りざまにその小石を投げつけた。ちょっとでもあの生き物たちの意識が反らせればいいという程度でそんなに期待はしていない。
だがそれは予想外の動きを見せ、思わず悠は瞠目した。
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