036-out_交代(2)
――どうしよう。
一人残されたクレアは何が何なのか、訳が分からなくなり、混乱状態に陥っていた。追うべきなのか、待つべきなのか。そもそもハーヴェイはどうしてしまったのか――次第に涙が込み上げ、嗚咽が溢される。
するとその時、聞き覚えのあるの声が洞窟の中で鳴り響いた。
「ハーヴェイッ。クレ……ッ!」
その一部は掻き消されているものの、オリヴィアの声だ。クレアは嬉しさで胸がいっぱいになった。
――助けに来てくれた?
立ち上がって駆け寄りたい思いはあった。だが竦んだ足は言うことを聞かず、動かない。涙も止まらず、手も震えている。心と体のあべこべにクレアは焦った。これでは気付いてもらえないのではないか、と。
だがオリヴィアはクレアを見つけた。
「クレア。お父様に依頼されて、お迎えに参りました」
松明を手にクレアのそばへ寄り、オリヴィアは優しく、ゆっくりと話しかける。彼女のすぐ後ろには他の冒険者の男のが控えていた。確か、ヒューゴとかヒューズとかそんな名だった。
その男がクレアの体を支え、問いかける。
「ご無事でなによりだ、お嬢さん。怪我とかないか?」
「…………わたしは、大丈夫」クレアは小さな声で答えた。そして、声を振り絞って続けた。「でも、ハーヴェイが酷い傷で……」
クレアは嗚咽の漏れるのを一心に堪え、一つ一つ告げた。ハーヴェイが腹を剣で貫かれたこと、崖から落ちた際に木の枝が刺さったこと、魔獣たちの攻撃でかなりの痛手を被ったこと、そしてかなり出血していること。それを聞くオリヴィアの瞳は見開かれていた。
視線を洞窟の外へ向け、クレアは最後の言葉を押し鳴らした。
「その、ハーヴェイは、残りの魔獣を追って、外に……」
するとオリヴィアは息を呑み、自分の外套をクレアに被せ、松明を持たせると、
「ふたりは此処で待っていてください。あの馬鹿は私が連れ戻します」
そうして外へ飛び出していった。ただ茫然と、クレアは名も知らぬ冒険者の男と二人で、彼女のその背中を見届けた。
✙
ハーヴェイと魔獣たちが通ったと思われる道は下草が倒れ、血が点々と落ちていた。その
――何処?
――ハーヴェイ、何処なの?
「……っ!」
地面に転がっているものを見て、オリヴィアは急ぎ馬を止めた。数匹の魔獣が目を見開いて転がっていたのだ。首には深い刀傷が一つ走っている。肉が断たれ、其処からは多量の血が流れていた。ハーヴェイの仕業と考えられる。
クレアが言うには、ハーヴェイはかなりの深手を負っていて、熱も出ていたという。魔獣に負わされた左脚と右腕の傷以外に、盗賊に腹を剣で貫かれたうえ、背中にも酷い傷を負ったらしい。
負傷して二日も衛生状態の悪い場所に居たのだ。破傷風になっていても何ら可怪しくはない。本来ならば、今直ぐにでも医者に連れて行くべきなのだ。
「……あんの、お馬鹿。何処に行ったのよ!」
オリヴィアは再び馬を走らせた。とにかく早くハーヴェイをとっ捕まえて、引きずってでも医者のもとへ連行せねばならない。
――それに、もしも。
ハーヴェイは時折、激しい頭痛に見舞われていた。残りの魔獣たちの相手をしている間にあの頭痛を起こせば、ひとたまりもない。
――魔獣の残党なんて放っておけばいいのに。
徐々に雨が降り始め、視界が悪くなってきた。早く追いつかなければ、また痕跡を見失うであろう。オリヴィアは流される寸前の血痕を目で追い、ハーヴェイたちを探した。相手は全員足を使っている。馬を駆るオリヴィアならば、必ず追いつけるはずだ。
――でも、深追いするなんて……。
以前のハーヴェイならばまだしも、最近のハーヴェイからは想像の出来ない所業だ。いったい全体どうしたのだろうか。
――まさか、熱で記憶を無くしただけじゃなくて、思考能力まで無くしたんじゃないわよね。
オリヴィアは悔しさで唇を噛んだ。とうとう痕跡を見失ってしまったのだ。オリヴィアは馬から飛び降り、周囲を見渡した。
――何処?
――何処なの?
俄にオリヴィアの視界の端で、何かが落ちているのが映った。慌ててオリヴィアは、馬を手で引いて、その場へ駆けつけた。
「……げ」
思わずオリヴィアは苦虫を噛み潰したような声を上げた。其処には、あの硬い、魔獣の耳が落ちていた。そしてすぐ傍へ目を移すと、魔獣の死骸が一つ転がっていた。首の皮一枚で繋がっている、を体現したような屍だ。
あの頑丈な皮膚をどうやって掻っ切ったのかは不明だが、首の傷は深く、血管の張り付いた首の骨がよく見えた。しかし、両耳は揃っているので、この耳は、別の魔獣のものであろう。
――これって……。
この残忍な殺し方には、覚えがあった。たった一年の間ではあるが、数回ほど見たことがある。怒り狂ったハーヴェイが敵に報復するやり口だ。彼は頭に血が上ると、不必要なほど残酷なやり方で敵を追い回し、殺すのだ。
――え、待って……。
では今のハーヴェイはオリヴィアの知るハーヴェイなのだろうか。
――嘘?
――もとに戻ったの?
オリヴィアははやる気持ちを抑え、辺りを再び、じっくりと見渡した。どちらにせよ、ハーヴェイが深傷を負っていることには変わりない。早く連れて帰らねば。
「……っ!」
キイン、という金属が擦れる、剣戟の音が右手前方から聞こえた。オリヴィアは音のした方を一瞥し、再び馬に跨った。
――急がないと。
音の聞こえる方角へ向かう途中も時折血が落ちているのが見えた。魔獣のものなのか、ハーヴェイのものなのか、それとも両方のものなのかは判らない。
ギャンッ!
という、魔獣の苦しげな悲鳴が僅かに離れたところから鳴り響いた。オリヴィアは必死に馬を走らせた。行く途中の各所で、かなりの血液が落ちていた。怪我をしているのを踏まえれば、少なからず、ハーヴェイも出血しているはずである。
「……きゃっ!」
目の前に何かが転がって来たため、オリヴィアは慌てて馬を止めた。魔獣の死体だ。四つの目を全て刃物で刺され、眼球がえぐられていた。首の傷も先程の魔獣同様に深い。腕や腹に不必要な程に何度も刺した形跡があった。
――やっぱり。
今追っているハーヴェイは、オリヴィアの知るハーヴェイで間違いない。ここまで残忍なやり口を、ついこの間までのハーヴェイにできるはずがない。
そもそも、此処までやる必要がない。任務で捕獲までを求められていない限り、相手が戦意喪失をした時点で、追いかける義理はない。更に、首をこんなにも深く斬れるのであれば、眼球を抉ったり、他の箇所を何度も刺す必要がない。
――相当、頭に血が上っているわね。
理性を欠いたハーヴェイを止めるのは至難の業である。不可能と言ってもいい。オリヴィアも何度か怒り狂った彼を止めに入ったことがあったが、いずれも彼が満足するまで止めることができなかった。つまり、全敗である。
「……っ。ハーヴェイ!何処なの?」
オリヴィアは大声でハーヴェイを呼んだ。まだ近くにいる筈である。藪を掻い潜りながら、オリヴィアは必死にハーヴェイを呼んだ。雨音が五月蝿くて、音がちっとも聞こえない。
「…………っ。ハーヴェイッ!」
オリヴィアの声が、雨の森の中に木霊した。
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