035-out_交代(1)
――殺される。
――殺される。
女の目は怒りで爛々としていていた。
何か不平不満を捲し立て、腕を振り回す。
割れた酒瓶が、すぐ横の床に叩きつけられると、恐怖した。
女は頬を張ってきた。
女はヒステリックに怒鳴り散らしてきた。
女は髪を掴んできて、何度も何度も腹を蹴ってきた。
――殺される。
――殺される。
恐怖と不安がどうしようもなく襲ってくる。
いつかこの女に殺されるのだろうか。
そう思うだけで恐れ慄いた。
――ならば。
――ならば、殺ってしまえ。
そんなこと、できるはずがない。
――生きるためだ。
――先に殺ってしまえ。
木霊するその声に、耳を塞いだ。
そんなこと、できるはずがない。
してはいけない。
――ならば、自分がやるまでだ。
✙
「ハーヴェイッ。ハーヴェイッ!」
ぐったりと動かなくなったハーヴェイの下で、クレアは何度も彼の名を呼んだ。
ぴくりとも動かず、彼は自分に覆い被さっている。つい先程まで自分を抱きしめていた彼の手はだらんと垂れ下がり、体重のすべてをかけてくる。彼の腹や背から流れる生暖かい血がクレアの肌に伝い、その重症さをひしひしと感じさせた。
クレアは恐怖した。
魔獣たちがその赤い目を爛々とさせ、牙を剥いてこちらを見ている。クレアは身を守る術を持ってはいない。歳の割には頭が良いと言われてきたが、此処ではそんなもの何の役にも立たない。
クレアは必死に叫んだ。
「いやああ、来ないでっ!来ないでえええ!」
魔獣たちはじりじりと躙り寄り、少しずつ距離を縮めてくる。クレアは死への恐れで頭が空白になり、気が付けば失禁してしまっていた。脳裏には、走馬燈の如く、父や弟、商団の職員たちの姿。
――誰か、助けて。
――お父さま、デニス、みんな。
クレアはきゅっと目を瞑り、痛みが来るのを覚悟した。
「あー……。クソが。いてえな」
突如、頭上からハーヴェイの声が響いた。
何処かいつもと様子の異なる、威圧感のある声。クレアは茫然とハーヴェイを見上げた。表情は見えない。彼は気怠げに地面に手を付き、クレアから身を離すと、よろよろと立ち上がった。その動き方ですら、自分の知る者と異なるような、そんな違和感が心を燻る。
――うそ。生きていたの?
そのハーヴェイの様子を伺うように、魔獣たちは足を止めた。魔獣たちもまた、ハーヴェイに不穏な空気を気取ったのだ。
ハーヴェイは舌打ちをし、吐き捨てる。
「おい、ピィピィ五月蝿えんだよ。クソ犬ども」
さらには地面に落ちた一刀の短刀を拾い上げ、「これしかないのかよ」と悪態を付く。やはり様子が可怪しい。普段の穏やかな雰囲気が何処にも無い。
やにわに数匹の魔獣が咆哮を上げ、ハーヴェイたちへ突進した。
だが不意に、クレアは足元に違和感を気取った。視線を下ろすと、足元には赤黒い血溜まりが出来ている。クレアの血ではない。おそるおそる彼の背中へ視線を上げると、彼の背中の肉は大きく削げ、血が止まることなく溢れ出ていた。
――だめ。
――その傷では無理よ。
逃げて、とクレアはハーヴェイに向けて叫びたかったが、恐怖で声が出ない。体も強張って動かない。
刹那。
内臓が抉れ、血管の切断される鈍い音と共に、数匹の魔獣の喉元から血飛沫が勢いよく上がった。ハーヴェイはただ、その血を全身に浴びている。いつの間にか、ハーヴェイの周囲には数匹の魔獣が藻掻き苦しみ、息絶えていた。
いずれの魔獣も喉元や心臓部のような急所を断たれていた。首を斬られたものは確実に太い血管を切り裂かれ、その奥にひっそりと黄ばんだ骨が除いている。心の臓を貫かれたものは拳ほどの穴があき、其処から心の臓やそれらを繋いでいた筈の血管が引きずり出されている。
他の魔獣たちが毛を逆立てて唸り声を上げ、体を大きく見せて威嚇した。魔獣の表情は解からぬが、全身からは恐怖感が滲み出ているようにも思える。
しかしその傍ら、ハーヴェイは呑気に血でベトベトになった短刀を振り、血を振るい落としていた。それからハーヴェイはガン付けるように魔獣を睨め付け、
「……やるならこいよ。ああ?」
魔獣たちは少し尻込みをしたように後退る。そのうちの一匹だけは歯茎が見えるほどに牙を剥いて、前へ飛び掛かった。数匹の魔獣が触発されたように、うおおん、と雄叫びをあげ、続く。
――どうしよう。
――どうしよう。
クレアはガタガタと体を震わせていた。ハーヴェイはかなりの手負いだ。この数の魔獣を全て相手にするなど、無茶である。助けに入りたいところではあるが、クレアは戦闘に関する術を持ち合わせていない。クレアは無力だった。
だがそんなクレアの不安を
ハーヴェイをS級だと知らぬクレアはただただ唖然とした。――すごい。
さすがに負傷した背や腹が痛むのか、ハーヴェイも時折苦悶の表情を浮かべていた。その隙を突かれて、魔獣たちの牙が掠るものの、急所には当たらないよう彼はうまく立ち回っていた。気がつけば、魔獣たちは洞窟の入り口へと後退させられていた。
――あれ?
其処でクレアは不審感を抱いた。追い込むならば、壁側に追い込んだ方が退路を断てて良いはずだ。そんなことは、争い事に疎いクレアでも解かる。しかし、ハーヴェイはあえて洞窟の入口付近に男たちを誘導しているよに見えた。
――もしかして、わたしを守るため?
壁側には、クレアがいる。ハーヴェイは、クレアの為に、あえて追い込みづらい入り口側へ魔獣たちを誘導しているのだろうか。
ギャンッ!
魔獣の一匹が鳴き声を上げると、魔獣たちは一目散に森の方へ逃げていった。
――よかった。
クレアは安堵した。嵐は去ったのだ。後はオリヴィアたちの元へ行く方法を考えるだけだ。
しかし、ハーヴェイは短刀に付着した血を再び振い落とし、こちらに戻ってこようとしない。さらには、「逃がすか」と吐き捨てる。ちらりと垣間見えた彼の黄金色の瞳は、まるで獲物を狙う肉食獣のように爛々としている。
――ハーヴェイ?
ハーヴェイの様子に、クレアは呆気に取られた。ハーヴェイのその目は、まだ諦めていない、捕食者の目だ。ハーヴェイはふう、と一息付き、腕をぐるりと回すと、洞窟の外へと飛び出して行った。
――え?
今目の前で起きた、不可解なハーヴェイの行動に、クレアは困惑した。あの魔獣たちを追いかける理由は何処にも無い。魔獣たちは降参したも同然だ。
それに、魔獣の捕獲は護衛の冒険者たちの仕事には含まれていない。そもそも、ハーヴェイは冒険者ではないと聞き及んでいる。
「戻ってきて、ハーヴェイッ。深追いは無用よ!」
恐怖の余韻で震える声を振り絞ってクレアは叫んだ。しかし、反応がない。先程までは確かに優勢ではあったものの、ハーヴェイはあの深手。あまり動き回るべきではないし、長時間に及べば不利になる可能性もある。
「……ハーヴェイッ!」
クレアは力の限り声を張って彼を呼ぶが、ハーヴェイは戻っては来なかった。
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