034-[IN]Y_内世界(4)
「へ?」
悠は間の抜けた声を上げる。
其処にいたはずの少年が、忽然と消えた。悠はぎょっとして、思わず辺りをきょろきょろの見渡すも、やはり蓮の姿はない。
「これで、向こうの肉体は動くはずだよ」
と言う紫苑の声で、悠は再び窓へ視線を向けると、窓にくっきりと、あの魔獣のおどろおどろしい姿が映った。
「えっ!?」
悠は目を剥く。いったい全体、どうなっているのか。それはまさに、ハーヴェイの「視界」である。悠はよろよろと窓へ近寄り、まじまじと見た。
すると、紫苑がからからと笑いながら、
「吃驚するよね。あ、それと、感情が高ぶっているときに
と言って悠の腕を引き、窓から離す。
「なぜ近寄ってはいけないんですか?」
「ううん、原理よくわからないのだが、
今、誤って外に放り出されていれば、悠はあの魔獣の牙に貫かれてた、ということになる。悠は、近づかないでおこう、と
だが其処で、紫苑が不穏な言葉を鳴らす。
「まあ、よくわからないけど突然外に出ちゃうこともあるんだけどね」
「え……?」
「実際、悠が日本に出たときも、蓮がクロレンスに出たときも、急に外に出されてしまって大変だったんだ」
「……へ、へええ」
さらにその時は、中と外との会話ができなかったらしい。外に出された先が日本だった悠は幸運な方である。蓮は見知らぬ土地で見知らぬ言葉を話す人しかいない、訳の分からない世界に一人放り出されたのだ。
顔を引き攣らせている悠を見て、紫苑は苦笑混じりに言葉を続ける。
「あと、中の人は突然増えたり減ったりするけど、あんまり吃驚しないでね」
「へ」
悠は驚きのあまり、間の抜けたな声を上げる。だが紫苑の言葉は其処で止まらず、
「これはぼくにも言えることなのだけどね。ぼくも数年前にはいなかったし、マリみたいのが複数人いたときもあったらしいんだよ」
悠のあんぐりと開いた口が塞がらない。急に人がいなくなったり、同じ人が複数も出てくるだなんて、まるでホラー映画だ。
「あと、初めて出てきた中の人は何をするかわからないから、そのあたりは気をつけないとね」
「え?」
「レンが初めて外に出てきたときなんて、カッターナイフ持って人を刺そうとしたらしいからね」
悠はさあ、と全身から血の気が引くのを感じた。カッターナイフということは、それは
ふと其処で、悠は疑問を持った。
「……ん。
先程から「らしい」と言う言葉を何度も紫苑は使っている。当事者では無いような物言いだ。
「ああ、ぼくは蓮より後に生まれたからね」
「……えっ。そうなんですか!?」
ちなみに、初めは蓮が
「なんだけど、ぼくが来てから間もなくしてその人がいなくなってしまってね」
それで、人望の厚さで紫苑に決まったそうだ。確かに紫苑は頼れる姉御肌、という雰囲気がある。ややマイペースではあるが。
「……そういえば。なんで僕たちには名前があるんですか?」
悠が訊ねると、ううん、と紫苑が首を傾げた。
「それは、ぼく達もわからないんだよ。たまに、名前の無い中の人も出てくるしね。もしかしたら、憑依前の名前なのかもしれないね」
へえ、と悠は呟く。なんとも不思議だ。
ふと窓を見ると、窓が赤く染まっていた。ホラー映画のワンシーンのようだ。思わず悠はひいっと悲鳴を上げる。するとすぐに一匹の魔獣が床へ転げ落ちる光景へと切り替わる。その首に一つの大きな傷があった。蓮が殺ったのだろうか。
そのスプラッタな光景を前に、紫苑は呑気に言葉を溢す。
「うわあ……。相変わらず、蓮は派手にやるねえ」
その紫苑の様子を見て悠は顔を引き攣らせた。彼らいったいどの様な精神構造をしているのだろうか。確か、紫苑も初めは日本にいたはずなのだ。つまり、悠と同じ倫理観を持っていたはずだ。クロレンスで暮らすうちに麻痺したのだろうか。慣れとは恐ろしいものだ。
なんと無しに、悠は気になり、問うてみる。
「…………ちなみに、紫苑さんも戦ったりするんですか?」
オリヴィアからは、蓮の性格しか聞いていない。隠れて交代して戦ったりするのだろうか。悠の言葉を聞くと、紫苑が必死に左右に手を振ってみせた。
「え、無理無理。強制交代にでも合わない限り、あれはレンの仕事だよ」
というよりも、そもそも勝手に蓮が冒険者を選び、勝手に傭兵業をやるようになったらしい。誰も止められなかったのは、その間、蓮とは誰も連絡が取れなかった為である。蓮と会話ができるようになった時、外の状況に中は騒然としたらしい。
紫苑は困り顔をして、
「まあ、あの子は攻撃的なところがあるからねえ」
それで、切った張ったの世界に行きたがるなど、どんな思考回路をしているのだろう。実はサイコパスなのか?と悠は思わずにはいられない。
「……じゃあ、今度からは僕もやらなくていいんですか?」
紫苑の方を見つめ、悠は訊ねた。もう、何かを殺したり殺されかけたりするのはごめんだ。蓮には悪いが、痛いのも嫌なのだ。
「うん。基本的にはレンを中心にクロレンス側の生活は回すつもりだから」
紫苑の言葉を聞き、悠はほっと胸を撫で下ろした。やっと落ち着いてのんびりできるのだ。
「あっ。れ、れ、れんお兄ちゃん、すごい」
陽茉の声に、悠は再び窓を見た。気がつくと、蓮は森の方まで出ていた。近くにクレアはいない。どうやら置き去りにして、魔獣たちを追っているようだ。
「あー……。相手もご愁傷さまだね……」
紫苑が南無三、と手を合わせる仕草をする。
「どうしたんですか?」
「蓮は、敵と見なした相手は、相手が泣いても謝ってもどこまで追い詰める性格だからね」
無愛想で、不躾で、敵には容赦がない、クズ。
そうハーヴェイをオリヴィアが形容していたのを悠は思い出した。確かに敵に容赦がないのかもしれない。しかし、逃げ惑う相手を追い詰めるのは、やり過ぎなのではなかろうか。
――ああ、だから屑なのか。
なんとなく悠は納得した。
すると不意に、紫苑が言葉を落とした。
「でもよかった」
「え?」
紫苑は穏やかな微笑みを浮かべている。
「やっと、君の名前を呼ぶことができた」
紫苑の言葉に悠はハッとした。
名前。
ずっと呼んでもらえなかった、名前。
此処では悠は「悠」なのだ。
徐々に、悠は胸に何かが込み上げてくるのを感じた。無意識に、熱い涙が頬を伝う。
「あ、あれ……」
堰を切ったように、涙がぼろぼろと、次から次へとこぼれ落ちる。気がつけば、嗚咽が漏れ、悠は声を出して泣いていた。
これからは、
これからは、
知らない
知らない
僕は、「悠」なんだ。
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