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042-R_日常(1)


 

 独特の薬品の、匂い。

 がやがやとした人の声や、一定のリズムを刻む電子音が鼓膜を揺らす。

 

 目蓋を上げれば、そこは白い部屋。

 束ねられたパーテーション用の白いカーテンと戸棚の向こうを見れば、同じような白い寝台ベッドが並べられ、年老いた女や中年の男なんかが自分と同じように横になっている。

 反対側の硝子窓の外を見れば、うろこ雲に覆われた、色の薄くなりつつある群青の空が見えた。

「……っ」

 痛み止めが切れたらしい。これでもだいぶよくなり、一人で歩き回れるようにはなったのだが……全身に包帯の巻かれ、右足は副子ふくし(添え木)で固定されて身動きが取りづらい。今みたいに薬の効果が薄れると、少し軀をよじっただけで小さく痛みが走る。

 

「あら、起きたの?」

 鳴らされたのは、女の声。


 声の鳴らされた方を見れば、パーテーションのカーテンの横に、小皺の目立つ顔に汗で剥げた化粧をした女が立っている。栗色の髪をシニヨンに結った少しふっくらとした女だ。よれたパンツスーツ姿をして、花束を抱える手の反対側の手でキャリーバッグを引いている。

 

 その女はキャリーバッグを窓の前へ止めて、棚上の花瓶に花を生ける。女はふと、こちらへ目を向けて口を開いた。

「もう少ししたら退院でしょう?」

「……ん」

 短く、返事をする。

「お母さんね、このままお仕事行かなくちゃいけないのよ。退院手続きの時にはまた来られるから……」

 

 わかっている。

 それまで、くれぐれも。こちらは無言で、こくりと頷くだけに留める。余計なことは、何も言わない。

 

 だのに、女は自らをする。

 せっかく黙っていたというのに、女は目をうるうるとさせて、こちらの手に手を添えてきた。

「お願いよ。これ以上、お母さんを不安にさせないでちょうだいよ。事故に遭ったって聞いたときは心臓、止まっちゃうかと思ったのよ」

 肉付きのよい、丸みのある小さな手だ。シミがだいぶ目立つ。その手を小さく震わせて、こちらの手をぎゅっと握る。

 

 ――またか。

 

 何を思い出したのか、女は鼻の頭を赤くさせて、ひくひくと嗚咽を溢している。すぐに泣く女だ。

「もう、あなたしかいないのよ。お願いだから、お母さんを独りにしないで」

 顔がぐしゃぐしゃだ。ただでさえ汗で剥げていた化粧もどろどろに流れて、みっともない。以前より――よりずっと、涙もろい。感情の高ぶると、すぐにこうやって、びょおびょお泣く。

 

「……時間」


 飛行機の、時間。

 短くそう伝えると、女はぐじぐじと鼻をすすって頷く。

「そうね。何かあれば、連絡ちょうだい。アドレス、登録してあるでしょう?」

「ん」

 女は短いその受け答えに少しだけ寂しそうにして、キャリーバッグを手繰り寄せる。

「またね。ちゃんとご飯、食べるのよ」

 そう言って、女は部屋の扉を開け、その向こうに続く無機質な廊下の中へと消えて行った。

 すると隣の寝台ベッドで新聞を読んでいた年老いた男が声を鳴らす。

「あんなに心配する母親を無下にするなんて、親不孝にもほどがあるぞ、若いの」

「……」

 

「まったく、愛想のない学生さんだ」

 

 老人はそう吐き捨てると「ふん」と鼻を鳴らしてまた、新聞に視線を戻した。あの女が見舞いで訪れる都度に、小言を言ってくるお節介な男だ。

 

 こちらもつい、と視線をそらすと、松葉杖を支えに、立ち上がる。ひょこひょこと、片足と松葉杖で進み、部屋を出た。

 すると、ちょうど通りがかった白衣の女の二人組がこちらを認め、片方の、眼鏡をかけた小太りの女がにこにこと笑顔を貼り付けて尋ねてきた。

「あら、お手洗い?」

 返事はしない。軽く会釈だけして、横を過ぎていく。

 

 そんな態度を不服に思ったのか、眼鏡の女が隣のひょろっとしたソバカスの女にひそひそと耳打ちする。

「恥ずかし屋がりさんなのかしら……?」

「というより、不愛想?せっかく可愛いお顔なのに、いつもムスッとして」

「でもそのせいかしらね。高嶺の花って感じの美人さんに見えるわ」

「国立大の学生さんなんでしょ?学歴あってあれって、お高く留まってるって言われないかしらねえ」

 

 丸聞こえだ。

 そして、余計なお世話だ。

 

 ――愛想?そんなもの、犬にでもくれてやれ。クソったれ。

 ――孝行?赤の他人にそんな面倒なこと、するかよ。アホらしい。

 

 松葉杖をついて、窓の前に立ち止まる。少し見晴らしがよく、駐車場のその向こうにコンクリートでできた建物の連なり、アスファルトの道を何台ものの自動車が行き交っているのが見える。

 

 ふと、その手前に移る自分の姿に、舌打ちする。

 

 榛摺はりずり色に染められた短い髪は、生え際には元の黒髪が覗いている。とろんと垂れた目には何処となく妖しさがある――これは最近ずっと見ているものと同じだ。そう思うと苛立って仕方がない。

 

 ――あいつは、俺が守る。

 

 だから、もう二度と。もう二度と、こんなところへは行かせない。否。彼が望むならば、いつだって連れてきてやる。でも、もう二度と、奪わせない。これ以上、失ってたまるものか。

 

「……戻るか」

 

 小さく息を付くと、踵を返して元いた部屋へ戻る。

 窓から差し込む西日は、気づけば茜色になっている。遠くからは巣へ戻らんとする鴉やムクドリの鳴き声が鳴り響いている。

 帰ろう。

 自分の、へ。

 白い寝台ベッドに腰掛け、背もたれに凭れ掛かり、目を閉じる。そうすれば、いつもの場所へ帰れるのだ。



 



「――レン!何してるんだい、急いでくれよ!」


 その瞬間鳴らされた声に、蓮は思いっきり顔を顰める。そこには見慣れた筋肉質な女の姿。ぜえぜえと息を切らせて、こちらの肩をがしっと掴む。

「ユウが代わりに出てるんだから、早く!」

「……あ?」

 蓮はさらに眉間の皺を増やした。

 





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初投稿からお付き合いのある方、そうでない方。本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。本作は約一年ぶりに連載を再開いたしました。これからは完結するまで連載を続ける所存です。

文体がやや変わってしまっているかもしれませんが、悠と蓮、ふたりの「人生」を共に追っていただけると幸いです。1で蓮は登場回でそんなに登場シーンが御座いませんが、これは悠と蓮のふたりの織りなす「多世界」ファンタジーです。

面白い、と思っていただけましたら、★や♡をよろしくお願いいたします!


花野井

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