138-[IN]Y_窓と扉(1)


 扉の向こうに、何かがいる。

 何となくそんな気がしたのだ。悠は陽茉を下がらせて、つかつかと扉のそばへ歩き寄ると、ドアノブを掴んで勢いよく扉を開けた。

 

「……」

 

 だが、其処には何もいない。

 いつも通りの、ブラウン調の廊下やずらりと並ぶ閉ざされた個室の扉があるだけだ。紫苑もヨナスも自室に籠もっているのか、それとも一階にいるのか姿はない。部屋から出てみて、階段のある方角と玄関のある方角を交互に確認してみるも、やはり何も無い。

 

 悠の行動を不審に思ったのだろう。ウサギのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめたまま、陽茉は小首を傾げた。

「ど、どうしたの?お、お兄ちゃん」

「いえ……気の所為だったみたいです」

 

 そう答えながらも、悠は玄関のある方角へ向けて廊下を歩きだしていた。ひとつ、気になったことがあったのだ。玄関の手前すぐに立ち止まると、悠はその部屋の扉を見上げた。

「……開いてる?」

 

 其処は蓮の部屋だ。何故か少しだけ開いている。それがどうにも気になったのだ。

 悠は蓮の部屋に入ったことがない。いつも固く閉ざされていて、しかも蓮自身も部屋にいない。ゆえに訪れる用事がなかったのだ。紫苑が言うには、牢獄のような部屋らしいのだが、その情報もだいぶ前のものだ。たった数ヶ月の悠の部屋ですらがらりと変わるのだ。今どうなっているのか、実質的に蓮以外誰も知らないと言える。

 

「お、お兄ちゃ……だ、ダメだよ。お、おへや勝手に……」

 と後ろから陽茉に声を掛けられるものの、悠はほとんど無意識的に扉を押していた。キイイと音を立てて、開かれる。

 

 室内は薄暗かった。

 もともと窓なんてものは中にはないが、たいてい照明が用意されている。だが、周囲を見渡しても天井を見上げても、コンクリートのようなそんな色に材質をした壁があるだけで照明のようなものはない。

 家具の類はない。確かに、これは刑務所だと言われるだけはある。何故か肌寒さもあり、同じ空間の中にある部屋だとは思えぬ異様な殺伐とした空気で満たされている。

 

 ふと、悠は立ち止まった。

 あまりに暗く、足元がまったく見えなかったので気が付かなかったのだが、何か蹴飛ばしたのだ。屈んで目を凝らして見ると、何か溝のようなものがある。そして一箇所その溝は深く――悠はその形に、心当たりがあった。

「鍵穴だ」

 ひとつ思い浮かぶものがある。

 まさに、蓮が首から下げて持っていた鍵だ。あの鍵を使うと、住人を幽閉できるらしいが、他の住人は持っていないもののように思えた。悠はその鍵穴が封じる扉はないかと見渡した。だが不思議なことに、開きそうなところはない。

 

 しかしその代わりに、悠は壁に目を留めた。

 「……なにか書いてある?」

 

 全体的に灰白色かいはくしょくで見えづらいが、よくよく見れば、壁に何か削って書かれている。何かの文字だが、悠には読めない。否。読めないことはない。が、意味があるとは到底思えないのだ。様々な文字――それこそアルファベットやカタカナ、中にはクロレンスで用いている文字や見たことのない記号まで――が混在している。まるで文字化けした電子文書だ。悠はその文字をなぞって辿り、ふと眉を顰めた。

「筆跡が変わった?」

 角ばっていた文字が丸みを帯びた。だがすぐ数文字ののち、今度は荒々しく読めない。そして今度は――……。

 

「うわ。なにこれ」

 悠は思わず声を上げていた。

 

 入ったときは目が慣れず気が付かなかった。その意味の不明な文字の羅列がびっしりと壁の下部を埋め尽くしている。上部にないのは背丈の問題であろう。途中から書く場所を失ったのか、重ねて記している箇所まである。そしてそれはまるで複数人が書いたように筆跡が数種類あり、その異常さにさらなる拍車をかけている。

 気色悪い。そう、感じずにはいられない空間だ。悠は言葉を失い、我知らず後退っていた。

 

 すると、部屋の外で陽茉の声が鳴らされた。

「お、おにいちゃ……!」

 その声で悠もハッとして振り返る。だが遅すぎたらしい。扉が開かれ、腕を掴まれた陽茉の姿が垣間見える。掴まれた拍子に、落としてしまったのだろう。ウサギのぬいぐるみが床に転がっている。さらに扉が開かれると、陽茉のすぐ横にあの小柄な少年の姿が現れた。外の眩しさでその少年の表情は見えない。

 

 彼は濃淡のない声を発した。

「何してる?」

「……すみません。扉が開いていたので」

 素直に悠が詫びると、陽茉の腕を握る少年の手に力が籠められる。陽茉は掴まれていない方の手で抵抗するように少年の腕を引っ搔いて、

「いたい、いたいよ!」

 と叫んだ。かなり痛いのか、苦しげに唸るように声を鳴らしている。

 だが、少年は離さない。低く、冷たい声で続けた。

「どうして止めなかった?」

「ご、ごめんなさい」

 立っているのも辛いのか、陽茉は膝をつく。握られた腕はめりめりと骨が軋むような異音を鳴らしている。悠は蒼然として声を上げる。

「蓮さん、やめてください。僕が勝手に入ったんです。子供に対してさすがにやりすぎです」

 

 扉のすぐそばへ駆け寄り、今度は悠が少年の腕を掴む。その際に目が慣れず、悠は一瞬目を瞑ってしまったが、再び目を開いたとき、少年は陽茉から手を離していた。そしてようやく、彼は茫然としているのだと悠は知った。黄金色の目を見開いたまま悠へ視線を向け、彼はぽつりと言葉を落とした。

「……てくれ」

「え?」

 悠は眉を寄せる。あまりに声が小さくて、言葉が捉えられなかったのだ。

 

 すると今度は壁を力強く殴りつけて、少年は叫んだ。

「いいから早く部屋を出ろ!」

 その声の荒々しさに、悠はびくりと震えた。少年は激しい感情を押し殺そうとしているのか、ふうふうと息が荒い。悠はそろそろと部屋を出た。

「勝手に部屋へ入ったことは謝ります。すみません」

 だが少年は何も返さない。勢いよく扉を閉め、その場にへたれこむようにしゃがむと、少年は問いかけた。

「……扉、開いてたんだな?」

「え、あ、うん。まあ。少しだけ」

 気不味い沈黙が流れる。少年は自分を落ち着かせようとしているのか、手で顔を覆い、動かない。よほど見られたくなかったのかと悠は困惑しながらも、少年の肩へ手を伸ばす。

「蓮さん……?」

 

 少年の肩に触れる寸前。

 突然に少年は立ち上がり、声を張った。

「ヨナス!。探すの手伝え!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る