137-R/[IN]Y_来客(4)
血飛沫が飛び散り、子供が力なく床に仆れた。ゴンッという鈍く激しい音とともに石の床や壁に赤い池と染みが作られる。血の海の中で虚ろな目を開けたまま動かなくなった子供を前に、蓮はちらりとアーサーたちを見て言った。
「……あっちから勝手に死にやがったぞ」
「ああ、たく!面倒臭えとこでやってくれたなこの野郎!」
と叫ぶジェイコブ。
これらの音で目が覚めたのだろう。数部屋の扉が開かれ、何事かと廊下の様子を伺う宿泊客が現れ始めた。その中にはオリヴィアも含まれており、
「何の音よ……?」
と怪訝な面持ちで部屋の外に出てきた。さすがに
「て、ちょっと。本当に何やってんのよ」
「何をやらかしたんだ。ジェイコブか?それともハーヴェイか?」
とさらに部屋から出てきたサイラスが言葉を差す。不名誉な指名に、ジェイコブは嘆くように声を上げた。
「なんか酷くねえか?俺らじゃねえよ。いや、マジで初めはハーヴェイ殺りかけたけどさ。でも違うぜ。こいつが勝手に自分で首斬ったんだ」
無駄に早口で言い訳するジェイコブに、サイラスは冷ややかな目でもって返す。
「ほう……?」
「あ、その目は信じてねえだろ!」
図体が人並み以上にあると、声量もそうなるのだろうか。あまりの喧しさに耳を塞ぎながら、蓮は屈んで冷たくなった子供を見た。荒れた手や発育状態の悪さからして、貧民の家庭の子供か孤児。蓮は衣服めくって、何か所持はしていないかと確認していた。
オリヴィアはそんな少年に呆れながらも、横に並んで屈んだ。
「あんたは弁明しないで、何を死体漁りしてるのよ」
「あ?興味ねえよ。んなことよりこの短剣に彫られている文様に覚えはねえか?」
「文様?」
少年が指さしているのは、短剣の束の部分だ。よく見なくとも、その短剣はみすぼらしい子供が持つにはあまりにも細工が豪奢なものだ。幾何学文様が彫り込まれ、その中央部分には削れてはっきりしないが、三枚の花弁を開けたような文様が施されている。オリヴィアは眉を顰め、首を傾げる。
「何処かの家紋かしら?」
「古い家系に多い文様ですだねエ」
突然に背後から降って来た声に、蓮は一瞬言葉を失った。
「……ロルフ。お前どっから湧いて出てきた」
その浮浪者のような、ぼさぼさ頭に無精髭をした猫背の男が立っているのはアーサーとハーヴェイの部屋の中だ。入り口はこの子供の死体と蓮やオリヴィアが塞いでいるというのに。
「ふっふっふ。秘密ですダ」
オリヴィアも無言でぎょっとして天井を見上げてみたりしている。まさか上から?などと考えたのだ。この男ならばやりかねないので冗談にならない。何時間も天井と同化して脅かす
目を据わらせて呆れ果てていた蓮は小さく嘆息して訊ねた。
「まあ、別になんでもいい。何処の家のかはわかるか?」
「いやあ、わかるような、わからないような。思い出せないですだネ」
苛立ちで一発こぶしを見舞ってやりたい気分になるも、なんとか堪える。
こういう時のロルフはたいてい見当がついている。だが逆さ吊りにして海に浸そうと、山火事の中へ放り込もうと、決して吐くことはない。全身全霊で命を懸けてまで他人をおちょくりたがる性分の男だ。相手にするくらいならば、自分で調べた方が早い。
仕方なしに、蓮は立ち上がった。確か、荷物にアーサーの紙やペンが入っているはずだと考えたのだ。
その瞬間。
オリヴィアが碧眼を見開き、声を張っていた。
「え、ちょ……ハーヴェイ!」
当の蓮は自分に何が起きたのか、全く理解できずにいた。突然に視界が傾き、一瞬だけ視点が切り替わった。オリヴィアとロルフを見上げていたのだ。全身の感覚は無く、音も遠い。目だけで周囲を見ると、他の宿泊客に謝罪して回るアーサーの姿や、サイラスにいつまでも弁明しているジェイコブの姿などがある――そしてまた、視点が切り替わった。
気が付けば咄嗟に駆け寄ったのだろうと思われるジェイコブに受け止められていた。
「おい、大丈夫か?足でも滑らせたか」
「……らしい」
蓮が茫然としながら答えると、オリヴィアが脱力したように頭を抱えた。
「もう、驚かせないでちょうだい」
その言葉に、蓮は何も返さなかった。足元に転がる死体は虚ろな目でそんな彼らを見上げていた。
ガシャン!
中の、一室。
突然に眩暈に襲われ、悠は座り込んでいた。手元にはティーポットやカップが割れて転がっている。紅茶でも淹れようとしていたのだ。
――なに?
一瞬、視界が
悠の背後から、一緒の部屋にいた陽茉の声が掛けられる。
「
今ので耳がおかしくなったのだろうか。音も少し遠く奇妙で、陽茉の声が別の声に聞こえたほどだ。ようやく五感すべてが元通りになると、悠はよろつきながらも顔を上げた。
「すみません……。もう、大丈夫です。」
彼も驚いたのかもしれない。ティーポットなどの破片の近くに立っていた彼の足元に、ウサギのぬいぐるみが落とされていた。
そのぬいぐるみへ左手だけを伸ばして拾い上げ、今度は別の意味で膝をつく。
「うわっ。重っ……!」
想像の斜め上を行く重さだ。飼い猫くらいの重量はあるかもしれない。こんなものをいつも抱きかかえて歩いているとは、全く想像すらしなかった。悠は呆気に取られながらも、何とか気を取り直して今度はちゃんと立ち上がった。
「すみません。想像以上に重たかったので驚いちゃいました」
そう言って手渡す。陽茉はなってことなさそうにそのウサギのぬいぐるみを受け取った。
「う、ううん。あ、あ、あり、ありが、とう。ゆ、ゆうお兄ちゃん」
いつも通りの吃音のきつい話し方である。声も聴き慣れたもの。
「こんなに重たいの、大変じゃないんですか?」
「た、たいせ、たいせつな、ものだから」
ぎゅうと強くぬいぐるみを抱きしめて俯く。重ささえ知らなければ愛らしい光景である。悠が顔を引き攣らせていると、陽茉は少しだけ顔を上げ、長い栗色の髪の奥でにこりと笑った。
「あ、あ、あのね。り、りり…………っ、ていうんだよ」
その言葉に一瞬理解が追い付かず、悠はきょとんとした。所々声が小さくて聞き取るのが難しかったというのもあるが、何が言いたいのかがわからなかったのだ。ようやく察すると、悠は納得したように言葉を返した。
「あ、ああ。ぬいぐるみの名前、リリっていうんですね」
陽茉はにこにこ笑うだけで、イエスともノーとも答えなかった。否。答えることができなかったのかもしれない。その瞬間、悠の意識が扉の外へ向けられていた。
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