029-out_悔恨(1)
それは数日前に遡る。
ベアード商団の一行と初めて野営をした日の夜のことだ。
魔獣を前に、オリヴィアは四苦八苦していた。
――なによ。全然歯が立たないじゃない。
赤い四つの目をぎょろぎょろとさせたそれらは、毛が固く、打撃が通らない。毛の生え際や目を狙えば、なんとかなりそうではあるものの、オリヴィアはあと一歩手前のところで仕留めきれないでいた。
――ハーヴェイがいれば。
いつものハーヴェイなら、あの華麗な剣さばきで、たちまちこの場を魔獣の死骸の山にしたであろう。やや思い出を美化してしまっていることをオリヴィアも自覚してはいるものの、ハーヴェイを切望せずにはいられなかった。彼の不在はやはり心許無い。
オリヴィアは相棒の
――よしっ!
オリヴィアはうまく魔獣の背後を取ることができ、ぐっと拳を握る。せめて魔獣の死角で攻撃に専念したい。オリヴィアは必殺一撃、などという夢物語を捨て、ひたすら魔物の毛の隙間へ槌矛を何度も振り落とした。
グシャッという肉を突き破る音がする都度に魔獣が咆哮をあげ、暴れまわり、オリヴィアは振り落とされそうになったが、魔獣の毛にしがみつき、辛うじて持ちこたえた。
――もっと急所に近いところを狙わないと。
オリヴィアは魔獣の上を這い、首の近く辺りまで進むと、魔物もそれに気がついたのか、激しく首を振ってきた。
「……っきゃあっ!」
オリヴィアはぎりぎり受け身を取れたものの、地面へと振り落とされてしまった。慌てて手をついたが故、手のひらを擦りむき、ひりひりと痛む。
「……もうっこの馬鹿力がっ!」
オリヴィアは再び立ち上がり、魔獣の背後に回るべく、一気に駆け抜けた。魔獣もそんなオリヴィアに対抗すべく、向きをかえ、オリヴィアへ突撃しようとした。
しかしオリヴィアは敢えて途中で急停止し、方向を転換させた。オリヴィアの狙い通り、魔獣は驚いたように、その巨体をよろけさせた。
その隙をつき、オリヴィアは魔獣の後ろ足に一発蹴りを見舞い、確実に体勢を崩させ、体勢の崩れたところを、魔物の後ろ足から駆け上がり、その背に再度登り詰めた。
オリヴィアはその魔獣の首元まで走り抜ける。魔物が起き上がろうとして、足元が揺れるが、毛にしがみついて、振り落とされぬよう踏ん張った。
「……っこのデカブツがっ!」
オリヴィアは体毛から手を離し、魔獣の後頭部に蹴りを一発入れた。ダメージを受けたようで、魔獣が咆哮を上げて暴れまわる。オリヴィアは首の毛に捕まり、何度も、何度も槌矛を振り下ろした。
――いい加減、倒れなさい!
オリヴィアは必死に槌矛を振り下ろし、その衝撃で魔獣の肉がえぐれる。早く、ハーヴェイの元へ駆けつけたい。オリヴィアは必死に槌矛を振るった。
「わっ!」
再度首の肉を槌矛で抉ったところ、魔物が崩れ落ちた。どうやら、致命傷を負ったようである。オリヴィアな念のため再度首を力強く殴りつけ、もう動かないことを確認した。
――早く、ハーヴェイのところに行かなくては。
――あれ?ハーヴェイ、倒れてる?
ハーヴェイが頭を抱えて蹲っていた。それは、商団が港町エルデンを出発する前日を彷彿させる光景だった。
「……ハーヴェイッ!」
オリヴィアは慌ててハーヴェイのもとに駆け寄った。ハーヴェイは苦しそうに呻き、頭を抱えている。
――どうしたの?やっぱりどこか悪いの?
ハーヴェイは立つ力もないのか、地面に丸まってのたうち回っていた。余程頭痛が酷いのか、ぎりぎりと歯を食いしばっている。
「ハーヴェイ、ハーヴェイ、しっかりして」
苦しそうにするハーヴェイは、呼吸が荒く、その見開いた瞳には何も映っていないように見えた。
「……み、みお、……」
ハーヴェイの呟く声に、オリヴィアは顔を顰める。彼が誰かを呼んでいる。
――ミオ?家族かなにかかしら。
オリヴィアはハーヴェイの家族を知らない。ハーヴェイが何処から来たのかも知らない。
「……兄ちゃんが、……くから……」
辛そうに、苦しそうに、ハーヴェイが声を絞り出している。
――ミオは妹さん?
「ハーヴェイ、しっかりして」
とにかく、彼を正気にさせなくては。オリヴィアは必死にハーヴェイの体を揺すった。服は血と泥で汚れており、もはや元の色がわからなくなるほどに返り血を浴びている。近くに落ちている剣は刃こぼれをしており、ハーヴェイの拳は血と肉片でまみれていた。
――剣が使い物にならなくなって、必死に殴ったのね。
不意に、びくん、とハーヴェイが痙攣した。オリヴィアは驚き、叫んだ。
「ハーヴェイっ。ねえ!」
呼びかけた声に気がついたのか、ハーヴェイの瞳には徐々に生気が宿り、ゆっくりとこちらを見て、弱々しい声で言った。
「終わった……んですか?」
オリヴィアは嬉しさのあまり、涙がぼろぼろと溢れた。
「ええ、ええ。全部片付けたわ」
恐ろしかった。あの日のハーヴェイのように、また目を覚まさなくなったとしたら。
原因も分からず、一日死んだように昏睡したハーヴェイを初めてみたとき、彼がこのまま死んでしまうのではないかと、オリヴィアは恐怖に襲われた。あんな思いはもうたくさんだ。
「急に倒れるから、また起きなくなっちゃうんじゃないかと心配したのよ」
オリヴィアはぎゅうっとハーヴェイを抱きしめた。恐ろしさで震えが止まらない。ハーヴェイの体が温かいことに安心した。
「すみません……」
と小さくハーヴェイが答えるのが聞こえた。
「怪我はない?」
と言い、オリヴィアはハーヴェイから身を離し、ハーヴェイの頭から爪先までじっくりと監察した。倒れていたことばかりに気を取られていて、確認していなかったが、あの鋭い牙で肉を噛み千切られでもしていたら、大変だ。
「えっと……」
ハーヴェイが右腕を抑えた。左脚からも血が出ていた。すぐさまオリヴィアは急ぎ、見物に来てきた商団の職員に声をかけた。兎に角、怪我をなんとかしなければ。
ふと周囲を見渡すと、無惨な魔獣の死骸が転がっていた。ハーヴェイの奮闘をそれらが物語っている。
「あとは私の方でやっておくわ。あんたはもう休みなさい」
オリヴィアがハーヴェイに声をかけると、彼は素直にはこくりと頷き、よろよろと起き上がった。足の痛みでうまく立ち上がれなさそうだったので、商団の職員やヒューゴを呼んで、彼を支えてもらうよう、お願いした。
そのあとは急いで商団の職員たちと狼たちの死骸を片付けた。数が多く、埋めるために土を掘るのには苦労した。重たい魔獣を何匹も掘った穴に放り込み、どうにかこうにか寝る時間を確保することができた。
――そうだ。ハーヴェイは無事かしら。
ハーヴェイの様子を見に、オリヴィアは彼の寢かされているという天幕へ向かった。赤黒く血まみれの服が放り出されており、そのそばに着替えが放置されていた。脱いだは良いが、着替えるのが面倒でそのまま眠ったのだろう。下着一枚で寒そうだったので、オリヴィアはそっとハーヴェイに毛布をかけた。
「……いたい、やめて、かあさん……」
「…………ごめ、なさい……あ……さん……」
「……ごめ……なさ……」
ハーヴェイは頻りに何かに魘され、何度も母親に謝っている。オリヴィアは起そうかと思いあぐねた。意を決してオリヴィアがハーヴェイの背中を揺すろうと手を伸ばすと、ハーヴェイが更に苦悶した表情になり、彼の眼尻から涙が一滴、溢れ落ちた。
それを見ているだけで、オリヴィアはぎゅうと胸が締め付けられるような切ない気持ちになった。オリヴィアは彼の過去を知らない。だから、どんな悪夢を見ているのか想像もできない。オリヴィアはぎゅっとハーヴェイの手を握った。
――これ以上、ハーヴェイの具合が悪くなりませんように。
と祈り、静かに天幕の外へ出た。
しかし。
オリヴィアの願いも虚しく、ハーヴェイはまた倒れた。ベアード商団が再出発して間もない頃である。
「ハーヴェイ?……ハーヴェイっ!」
ハーヴェイはまた頭を抱えて、丸まっていた。
――やっぱり、どこか悪いんだわ。
イェーレンに到着しだい、名のある医者に見せなければ。オリヴィアはそう考えながら、只管にハーヴェイを呼びかけ続けた。
ハーヴェイは再び、意識を失った。
雨が降り始めた中、オリヴィアはずっとハーヴェイの傍らで座っていた。ハーヴェイはすうすうと寝息を立てている。
――こんな任務、受けなきゃよかった……、
オリヴィアは足を抱えこむようにし、自分の足に顔を埋め、泣くのをこらえた。
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