126-[IN]S_困惑(1)


 一人残された異国人の少年は暫くの間、騒々しい街の中にぽつんと立っていた。すでに其処には炎髪の少女の姿はない。彼はふらふらと路端へ寄ると、その場に座り込んだ。

 

「ふ……」

 少年の口端の持ち上げられた口元から、小さく声が溢れる。


 愉快な気分が彼を支配していた。愉快で愉快で堪らず、彼はだんだんに堪えられなくなり、くつくつと声を鳴らし始めた。口元を左手で覆ってなんとかその愉快な気分を抑え込もうとしていたが、それでもとうとう彼は声を上げて嗤った。

「ふ……ハハハ!」

 

 前を通り過ぎた冒険者たちがギョッと目を剥いていたが、それでも彼は構わず嗤い続ける。ようやく嗤いが収まると、のんびりと声を鳴らした。

「いやあオリヴィアさん。わかりやすく動揺してましたね。あれでも口調寄せたんですけど」

 

 傍目には、その言葉は誰に向けられたものでもないように見える。そもそもその場には、彼の姿しかないのだ。だが彼は明確にいた。

 

 そしてその声に応じるように、彼の頭の中で困惑した紫苑の声が響かれた。

(……ちょっとユウ。これどういう状況か教えてくれるかい?)

 その言葉に、彼はハーヴェイの切れ上がった黄金こがね色の眼をにんまりと細めさせた。


  

 それは、それは少し遡る。


 窓を前に、紫苑は困惑していた。

 あの気丈な少年が一人で泣いている。何度も何度も嘔吐し、声を押し殺し、一人哭いている。いったい何があったのか。何も知らず、紫苑は声を掛けられない。紫苑はじっと見守っていた。

 

 するとようやく落ち着きを取り戻したのか、窓越しにか細い声が鳴らされた。

(……おい。いるなら一声掛けろよ)

 

 紫苑はドキリとして飛び上がった。

 窓の外から中の音がどうやって聞こえているのか、紫苑は知らない。だがこうやって息も殺して物音立てないようにしていたのに、それでも聞こえるのはよほどの地獄耳のように思われる。

 

 でもまさか誰がいるまでわかるまい、と紫苑が聞こえぬふりを決め込もうとすると、

(紫苑。聞いてんのか)

 おい嘘だろ、と紫苑は顔を引き攣らせ、渋々と言葉を返した。

「君の耳はどうなってるんだい……。ええと、なんかごめんよ。その……大丈夫かい?何かあったのかい?」

(別に何でもない。忘れろ)

 

 何でもないわけがないし、忘れられるはずがない。だが何よりも弱みを握られるのを厭う彼のことだ。これ以上問い詰めるのも酷であろう――紫苑は口を噤むことにした。

 蓮は頭を冷やしたかったのか、路端に捨てられていた桶を拾うや近くにある井戸で水を汲み、頭から冷水を被った。


 窓越しにちらりと映った空を見て、紫苑はふと言葉を溢した。

「今日って何か用事なかったっけ……ユウから聞いてる?」

 太陽の位置からして、真昼時だ。ついこの間まで蟲の再調査に繰り出していたが、次の依頼は来ていないのだろうか。なまじハーヴェイはS級なので、依頼はひっきりなしに来るものなのだ。 

 だが何故か一瞬、蓮は返答に遅れた。

(……何も。宿に戻れば誰かいるだろ)

 

 珍しく自信なさげだ。その理由がわからず、紫苑は首を傾げた。日本が二年半ものの時間が経過していたことを紫苑はまだ聞かされていないのだ。

 ゆえに蓮が冒険者としての記憶が若干あやふやになっていて、いつものルーティン――朝起きたらすぐに机の上にメモがあるか確認するというものだ――をうっかりし損ねているなど、想像もしていなかったのだ。

 

 するとふと、蓮が息を呑んだ。

(……!)

 何事かと紫苑は窓へ意識を戻すと、男の装いをして炎髪を肩で切り揃えた美少女がつかつかと歩き寄って来ていた。

 だがオリヴィアもこの街にいることは別におかしいことではない。何故オリヴィアを見て動揺しているのか。紫苑は眉を顰めた。

「レン、どうしたんだい」

(あ、いや。……本当に何も変わってないんだな)

「……は?」

 

 蓮が何を言っているのかさっぱり理解できず、紫苑はいっそう困惑する。だが蓮はオリヴィアとの会話に集中しており、紫苑に説明するいとまがない。これは彼女との会話が終わるのを待つしかない。そう考え、紫苑がソファに腰掛けようとしたその瞬間。

 

「あれ。蓮さん、もうクロレンスへ行ってたんですか」


 階段のある方角から、蓮より少し低めの声が鳴らされる。突然の声に紫苑は飛び上がり振り返ると、さらに驚かされる。

「あれ、ユウ。その髪色……どうしたんだい?それになんか痩せたような……」

 

 彼の榛摺はりずり色をしていたはずの髪は艶がなく乾いた黒色こくしょくになっていた。眼窩は落ち窪み肌は青白い。手足はまるで枯れ木のように痩せこけていた。

 

 悠はうっすらと微笑を浮かべ、紫苑のすぐ傍らまで歩き寄った。

「中での見た目の変化はツッコんではいけないお約束では?」

「まあ、そうなんだけど……」

 

 指摘通りゆえに、それ以上何も言えない。だがその貼り付けた微笑までも別人のようで、紫苑は薄気味悪さを感じてならなかったのだ。

 

 ふと、悠は窓へ仄暗く光る目を向けて言った。

「で、どうして声をかけてくれなかったんですか?」

 

 蓮は何も答えない。ハーヴェイとしても沈黙しているようで、オリヴィアの彼を呼ぶ声が何度も呼びかけている声が聞こえてくる。そうこうしているうちに、とうとうハーヴェイの肉体の操作を忘れたらしく、窓の外が大きくぐらついた。

 

「ちょっと、レン!?……て、ユウ!?何やってるんだ!」

 紫苑は思わず大声で叫んでしまう。

 いつの間にか、悠が窓のすぐ目の前に立っていたのだ。それだけではない。手を伸ばし、その表面に触れている。悠は貼り付けた笑みを絶やさず、

「ちょっとお邪魔しますね」

 と言うと、手を窓の中へ入れ、

 

 その後すぐに、蓮ではなく悠がハーヴェイを操っているのだと紫苑は気が付いた。

 いつもの蓮よりも丁寧な言葉遣い、体幹を保つ方法を知らないがゆえによく揺れる視界。何よりも、わざとオリヴィアを困惑させる発言をしている。

 

 だから紫苑は今、問い詰めていた。

「ユウ。そういう笑えない冗談ジョークは止めてくれるかな」

 彼の行動は、ハーヴェイの生活を掻き乱すものだ。別に決まりがあるわけでも、それを言葉にしたわけでもない。だが住人たちの間には暗黙の了解があった。ハーヴェイの生活は蓮主体のもの。それでいて、これまで築き上げた関係に傷をつけるような行いは避けることと。

 

(僕もクロレンス側に出るようにしようかなと思いまして。時間のズレ的に、二つの世界の行き来可能ですし)

 あの礼儀正しい悠が何故急にこんな暴挙に出たのか頭がついて行かず、紫苑は頭を抱えて声を上げる。

「はあ?外の様子を知りたいなら、前みたいに窓越しに見ればいいじゃないか」

(それだと逃しちゃうかもしれないじゃないですか。指を加えて待つのはやめたんです)

 紫苑は唖然とした。 

 ――レン、何で君までだんまりなんだよ。

 

 悠が現れてからずっと、蓮は沈黙を貫いている。ハーヴェイの主導権まで明け渡して。いったいあの短い時間の間で、彼らに何が起きたというのか。これ以上何を言っても彼を止められる気がせず、紫苑は口を噤んだ。

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