048-out_蟲害(1)


 聖歴1743年の三月二日。

 クロレンス王国中央部を背骨のごとく東西に横断するオールトン山脈。その東端のリントン村にて。

 

 農夫のカール・バーカーは普段いつも通り、日の出の前に寝覚め、仕事を始めるべく、身支度をしていた。

 

 オールトン山脈北方沿いには広大な穀倉地帯がある。日常食としてクロレンスの民の食卓を潤し、兵糧として兵士たちの命を繋ぐ麦を育む重要な麦の産地である。

 この地域一帯に住む民の多くは秋に麦の種を蒔き、育て、夏に収穫して生計を立てている。リントンもまた、そんな民たちの暮らす村であり、カールはその民のひとりであった。

 

 その日もカールは朝餉の準備を妻のドロシーに任せ、畑の様子を見るために足を運んでいた。昨晩絶え間なく降り注いだ雪は止んでいたものの、凍てつくような寒さの残った朝だった。酷く皮膚の荒れ、赤切れた手にその空気の冷たさは堪え、思わず何度も手を擦り合わせては白い吐息を吹きかけた。

 

 畑までの道のりは雪が深く長い。村人の中で一番に外へ出かけたカールは踏み固められていない雪の上を潜るように突き進んだ。この季節には良くあることだが――矢張り雪道を歩くのは膝に来る。


 そもそも、もう間もなく七十を迎えるカールには農夫としての日常自体が年々酷なものとなっているのだ。

 土を耕すのも、種を蒔くのも、収獲するのも、腰に負担が掛かる。いつぎっくり腰になるかと作業をする都度冷や冷やさせられている。

 

 ならば若手を頼ればよいのに、それにはカールの頑固さが妨げになってしまっている。

 カールは妻以外の家族がいない、というわけではない。近所に息子も娘も住んでいる。中には、孫を持つ家もある。だというのに、息子や娘たち、そして孫たちが手を貸そうとすると、「まだそんな年寄りでない!」

 カールの意地っ張りな気質がついつい、出てしまう。本当は甘えたくとも、いざ手を貸そう、世話を焼こう、とされる都度、まだまだ現役だ!と突っぱねてしまう。

 

 ――なんだ?


 ふと、カールは足を止めた。

 

 時間としては、東の地平が黎明の光で煌めき、ぼんやりと茜色に縁取られ始めた頃だ。そこでようやく初めて、カールは異変に心付いたのだ。

 

 いまだかつて一度も嗅いだことのない、ツンとした異臭だ。獣の死骸が腐ったような硫黄臭に近い。昨日の夕方にはしなかったもの。

 これは、何か良くないことが起きている報せに違いない。カールの長年培われてきた直感がそう囁く。

 カールはとにかく、急いだ。早足で進み、麦畑に踏み込んだ――その瞬間。

 

「なんだあ、こりゃあ!」

 

 其の異様な光景を見て、カールは頓狂な声を上げた。其処はいつもの畑ではなかった。手塩にかけて育てた麦は腐り落ちたようにその身をもたげ、根本から新芽の葉の先までその異臭を放っている。

 

 近寄って見れば、つい昨日まで終雪の訪れを待ち侘びていた筈の麦の新芽は雪と同じ色に変色している。

 よくよくさらに目を凝らして見ると、麦の芽が白くなったのではなく、夥しい数の蟲のようなもので表面がびっしりと覆われていた。小指の爪ほどもない程に小さな、小さな白い蟲である。 

 蟲は傾いた麦だけではなく、その周りに落ちた木の葉や鳥獣たちの死骸までも覆い隠すかの如く取り囲み、波打つように蠢いていた。

 

 否。

 

 蟲は地中深くから湧き出ているのである。熱せられた水があぶく立つようにふつふつと湧きいでて、地上の生きとし生きるものすべてを飲み込もうとしているのである。

 

 ふと、カールはハッと我に返る。

 ――そうだ!他の畑は……!?

 

 カールは急いで隣やお向かい、さらには少し離れた親族や知人友人の畑も見て回った。そしてやはり、いずれの畑も同じように地下から湧き上がり蠢動する白い蟲に覆い尽くされていた。 

 その吐き気を催すほどの惨状に、カールはしばらく蒼然とした。言葉も出ず、息すらも忘れて。だがすっかり姿を表した太陽の光がキラリ、と白い蟲の表面を反射されると、ようやく気も確かになり、急ぎ村の家々へと走った。必死に雪道を駆け抜けた。

 

 不味い。これは非常に不味い。これはきっと、大変なことが起きているに違いない。みなに知らせねばならぬ。みなに相談せねばならぬ。

 害虫が麦を襲うことは度々あったが、こんな寒い雪の中で、しかも一晩でこのようなことになるのは経験がない――……。

 

「おおい。うおおい。皆、大変だ。大変だ。」

 

 カールが必死に声を張り上げると、そのカールの大声で家々から村人たちが顔を覗かせた。男も女も、年寄も幼子もみな、眠気まなこで、夢半分な様子である。

 

「なんだい、カール。こんな早くから」 

「騒がしいねえ。どうしたんだい」

「静かにしとくれよ。うちの子が起きちまうだろう」

 

 口々に不平不満を言い並べる村人たちの声を遮る如く、カールは声を張った。

 

「それどころじゃあない。蟲だ。地中から蟲が湧いて出て、麦を飲み込んでおる」

 

 カールの言葉に、村の人々は一寸、静まり、顔を見合わせる。この老人は何を言っているのか、と。その中のひとり、デレク・ブラウンが訝んだ面持ちで尋ねる。

 

「蟲……なんだって?というか今は冬だぞ?蟲なんか出るものか」

 

 デレクはカールの孫娘の夫にあたり、カールと同様に麦を育てる農夫だ。今年、息子が産まれたばかりの、一家の大黒柱でもある。

 

「出たんだよ!白い蟻……いや、油虫かもしれんが、この目で見た」とカールが答え、さらには「ざっと見たところ、殆どすべての畑がやられている」と付け加えた。

 

 カールの言葉に村の衆はどよめく。信じられない、とばかりに村の農夫たちは急ぎ自分の畑の元へと向かって行く。

 

「こりゃあ、ひでえ」「なんだ、この蟲は」「おい、鳥や獣の死骸もあるぞ」

 

 その悲惨な麦畑の様子に、男も女も騷めいた。中には嘔吐する者もいた。

 その蟲は足から頭まで白く、間近に見なければ雪と見分けがつかないほどに真っ白だ。よくよく見れば目は緑色りょくしょくだが、群れて隠れてしまっている。

 その緑眼を持つ頭の形は蟻のようであったが、その実、足は百足のごとく何本もあり、その足の根本にも緑色りょくしょくの目のようなものがついている。表面がとして光っていた。

 見ているだけで身の毛のよだつ、気色の悪い外見だ。


 蟲たちは麦の芽や鳥獣たちを食んでいるのか溶かしているのかわからないが、麦の芽や鳥獣たちの表面は熟れた果実の如くぐずぐずになっており、そこから異様な腐敗臭をさせている。 

 改めて全ての畑を見て廻ったのだが、全ての畑に蟲が湧き出ていると見てよいだろう。

 

「おい……。これじゃあ、今年は如何やって食っていけばいいんだ」「……どうするんだ」「もうお終いだ……」

 

 村人たちは頭を抱えた。此れでは今年の収穫は望めない。如何様にして妻や子を食わせていくべきか。

 


 数日後。

 

 その虫害は瞬く間に、オールトン山脈北部沿いの穀倉地帯全域に広まった。燃やしても、薬を撒いても、地を掘り起こしても蟲が湧いて来るのだ。ゆえに歯止めがきかず、畑の作物のみならず、その周囲の山や森の草木や鳥獣までも蝕んで飲み込んで行った。

 

 そして同年四月の頭。

 

 その依頼をジェイコブ・ハーバーとコリン・テイラーの二人が引き受ける頃には、其の被害は穀倉地帯の七割にまで蔓延していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る