047-R_前夜(3)


 許さない。

 赦さない。


 ふたりはずっとふたりっきりだった。

 何もない場所でふたり、生きていた。

 突然に世界が開けて、押し寄せる荒波のようにふたりを飲み込んだけれども、それでもふたりは、ふたりだった。

 何においても、優先すべきは互いで。まことに分かり合えるのも互いだけ。

 あいつが現れて、ふたりの間は引き裂かれて溝はどんどん深まってしまったけれども、自分にとっての一番はいつまでも彼だった。彼もきっと、そうなのだろう。そうであってほしい。ずっとずっと、そう思っていた。


 なのに。


 彼は現れた。

 他人の顔をして、よそよそしい態度で。

 








 蓮はハッと目を醒ました。

 ウェインリの宿の中だ。窓の外では、東の空の端でうっすらと陽が顔を覗かせて、夜の帳を上げつつある。今日はオールトン山脈へ向けて出発する日だ。

 

(おはよう、レン)

 頭の中で、紫苑の声が響く。蓮はシャツのボタンを留めながら、小さく舌打ちをする。

 

(お前、人が引っ込んだ瞬間に出てきやがって)

でも、殴られたら痛いんだ。正当防衛だよ)

 紫苑以外の声はしない。まだ他の住人たちは個室で眠っているということか。

 蓮は顔を洗い、衣服を着て髪を整え、旅荷の最終確認をする。携帯食が不足していたり、水を入れる革袋をうっかり忘れたりと大変だ。

 

 不意に、紫苑がから話を切り出す。

(それよりも、レン。本気かい?)

 

(何が)

 蓮は声に出さず、脳内で答える。ショートブーツの紐を再度きつく結びなおし、外套を羽織っていると、紫苑は言葉を続ける。

(中と外の行き来だよ。隙間時間を縫って、日本側に出るつもりなんだろう?)

(多少時間はずれてるんだ。できないことはねえだろ)

 クロレンスと日本は時間が逆転している。クロレンスが朝である今、向こうは夜。それに、クロレンスは今、五月で春だが、日本は十月と秋の真っただ中。季節まで反転している。

 紫苑は呆れたように溜息を付くと、

(って、君。いつ睡眠時間を取るんだい?)

(體は寝てるんだから行けるだろ)

(君ねえ!)

 

 そのいつもより大きな怒鳴り声にきいん、と耳鳴りがする。鼓膜の内側からがんがんと響く、不思議な不快感だ。蓮は頭を押さえながら、低い声で確認する。

(それよりも、そこにお前以外いねえよな?)

(……いないよ)

 うっかり他の住人たちのこの会話を聞かれたくない。とくに、彼には。蓮は眉間に皺を寄せて、顔を険しくする。

(なら、いい。いいか。近づけるなよ?)

 本人にも釘を刺しておいたが、一応第三者にも。紫苑は渋々といった様子で「わかったよ」と応じた。それでいい――蓮は旅荷を担ぎ上げ、宿の部屋を後にした。

 

 外へ出ると、既に炎髪の少女が宿の前の広場で、愛馬のアビーとイヴとともに待っていた。その横には知らない老いた一頭の馬と中年の男。粗末な生成り地の服を着た、中肉中背の男だ。顔は日焼けして、シミだらけ。日頃、太陽の下で汗水流して働く者の風体だ。

 

 オリヴィアは蓮の姿を認めるや、手を振って声を掛ける。

「おはよう、ハーヴェイ!ちゃんと起きてきたのね」

 

「仕事の時に寝坊はしねえよ」

 すぐそばまで歩き寄り、蓮は嘆息する。本当はもう少しのんびり寝ていたいところだが……可能な限り早く目的地へ行くため、しようがない。オリヴィアはにっこりと笑い、ハーヴェイの腕を馬身と叩いて、

「休みボケしてなくて何よりよ」

 地味に痛い。この怪力女め。ひとつひとつの動作が乱暴で手加減のない。

 

 すると今度は、オリヴィアは蓮の腕を引き、荷馬車の前にいたあの男の前へ誘う。

「ハーヴェイ、こちら案内人を引き受けてくれた、デレクさん。目的地の近くで農夫をしている方で、今は出稼ぎに街へ出ていたそうよ」

 

「どうも、デレクという」

 へこり、と頭を下げる農夫デレク。今回はデレクが道案内、蓮とオリヴィアが護衛という形で、目的地へ向かうのだ。目的地はドナ村のいう農村だ。そこは最後に行方知れずの仲間が送った手紙に記されていた場所だ。仲間は別の村からドナ村へ向かう、という手紙を残したきり、消息を絶ったのだ。

 

 蓮は眉根を寄せながらも一応、言葉を返す。

「ハーヴェイだ」

 これが仕事でなければ即無視を決め込んだであろうが、これは仕事。オリヴィアいわく、不愛想で不躾な蓮だって、一応挨拶くらい返す。これが挨拶と言えるものなのかは別の話として。

 

 デレクはじろじろと蓮――ハーヴェイの姿を見た。このパンダを見るような視線にも慣れっこだ。ハーヴェイはこのクロレンスにおいても珍しい人種。白い肌に茶髪や金髪赤髪のフロル人やグルト人の多い中、ハーヴェイは小麦色の肌に黒髪。

 そしてやはりと言うべきか、デレクはそこを指摘する。

「いやあ……もうひとりの方は男性と伺っていたんだが……まさかサハーンの方とは。初めて見たよ」

「中身はほとんど、私たちと一緒よ。言葉も全然問題なし」

 とすかさずオリヴィアが言葉を添える。異国人だ、と身構える者の多くは、人種的な偏見もあるがまずは言語である。何を置いても意思疎通コミュニケーションが儘ならないと、色々と不便だからだ。

 オリヴィアの言葉で、なおさら驚いたらしく、デレクはいっそう繁々しげしげと蓮に見入る。

「へえ、クロレンス育ち。なおさら珍しい。あんまり、こっちに出てこないイメージで」

「……俺も同類に会ったことねえな」

 ぼそり、と蓮は言葉を落とす。冒険者稼業でクロレンス各地を飛び回っているが、実は未だに同じような小麦色の肌をしている人間を見かけたことがない。それほどにサハーンなる場所の人間は珍しいのだ。

 

 デレクはオリヴィアにもちらりと視線を向けると、からからと笑って、

「それに何より、何ともおふたりとも別嬪で。美女ふたりが来たのかと吃驚しちまったよ」

「あ?」

 思わず低く、声を吐く。その中性的な声に、顔立ちで女と間違われることはわりと日常茶飯事だ。だが、直接言葉にされるとついイラっとしてしまう。

 蓮の鋭い眼光に驚いたのか、デレクはビクッと肩を震わせて後ずさる。旅の道ずれ人を怯えさせてどうするのだ、とばかりにオリヴィアが蓮の腹に鉄拳を打ち込んだ。

「そこ、凄まないでちょうだい」

「……注意する前に手を動かすなよ」

 蓮は呻きながら、悪態付く。

 だが、オリヴィアの「ん?」と言い返す満面の笑顔のその気迫に、押し黙った。これ以上余計なことを言えば、腹にまた穴が開くかもしれない。

 

「さて、出発しましょう」

 

 と言い鳴らすと、オリヴィアは彼女の愛馬アビーへ跨る。蓮は小さく嘆息すると、おのれの愛馬イヴへ跨って、「はいはい」と返した。

 

 聖歴1743年の五月十五日。実に、久方ぶりの旅である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る