100-out_聖夜(1)


 初め、彼は言葉を知らなかった。

 

 否。声を知らなかったのだ。出会ったその時。彼は宝石のような美しい目を爛々と燃やして、こちらをずっと睨み付けていた。

 触れることはおろか、一定の間合いに入ることすら、彼は許さなかった。例え眠っている最中であっても、距離を詰めようものならば、飛び起きて噛み付き、暴れ回った。まさに、手負いの獣だったのだ。

 

 そんな彼が、人間ひとの子らしくなったのはいつだっただろうか。

 その名を呼ぶと振り返り、言葉にならなくとも返事をしてくれるようになったのは、いつだっただろうか。その声がだんだんに言葉の形をなすようになったのは、いつの日だっただろうか。









 


 

 君塚きみづか淳一郎じゅんいちろうが初めて、五十嵐いがらしあおいと出会ったのは、入学して間もない時期だった。

 

 大きな図体を買われ、わけの分からないサークルの勧誘をする先輩方に半ば強制的に部室へ連れてこられたのがきっかけだった。

 

「ふっふっふっ。バレー部やバスケ部?そんなチンケなサークルより、我が肉体改造サークルに来たまえ!根本から君のその素晴らしい素質ある肉体を鍛えてやろう!」

 

 頼んでもいないことでノリノリな圧のある、マッチョな先輩に首根っこを掴まれたまま引きずられ、淳一郎は部室は放り込まれる。

 その部室もまあ、名前の通りに汗臭く、肉厚な男子学生たちがプロテインとササミを持って待ち受けていた。無論、女の気配なんてせず……のはずだったのだが、淳一郎はその部室で目を剥いた。

 

「なんや、あんた。来る場所間違えてないか?」

 

 部室にちょこんと座らされているその女子学生を見て、淳一郎は声を上げてしまった。そんな淳一郎に、筋肉ダルマな先輩は、

「おい君、失礼だぞ」

 と言うが、驚かないほうがどうにかしている。

 

 其処にいたのは、入学式でも男子学生たちをどよめかせた女子学生――通称マドンナであった。確か、名前は五十嵐あおい。文系学部の所属だったと思うが、こんなどうってことのない国立大に美人が来たと騒がれたものだ。

 同学部同学科の友人たちに、教養科目の講義室まで現物に付き合わされたこともあるので、間違えない。

 

 上背のある子鹿のようにすらりとした体躯、日本人にしては小さな顔に、妖しげに垂れた大きな黒目。少年のように切り揃えた榛摺 はりずり色(おそらく染めている)のベリーショートを此処まで見栄え良く魅せるのは彼女ならではだろう。

 

 そんなモデルのような美女が、筋肉の間に座っている。淳一郎はそっと先輩のひとりに耳打ちして問うた。

「え、先輩。ここってマネージャー募集してるんすか?」

「何を言っているんだ!彼女は入部希望者だ!」

 

 うそーん、と叫びそうになる。実は外国人さんで、漢字が読めないのではないか、だとか思わずにはいられない。ちらりと視線を五十嵐女子へ向けると、彼女は大きな目を瞬かせて、

「君も入部希望者ですか?」

 

 曇りなきまなこ。やはり何度見ても、不釣り合いすぎる。淳一郎はその横に座りつつも、一応とばなりに確認する。

「……五十嵐さん、此処が何の部室かわかってはるん?」

「肉体改造サークルですよね」

「ダイエットサークルとか、ヨガサークルちゃうで?」

 淳一郎の言葉を愉快に思ったのか、五十嵐は小さく吹き出し、くすくすと笑いながら言葉を継いだ。

「わかってますよ。ジムとかに行って、フリーウェイトとか、マシントレーニングとかをするところですよね」

「え、マジで来とるん?」

 失礼とわかってはいるものの、その正気を疑いたくなる。そもそも汗臭いのとかが似合いそうにないし、果たしてこの熱血筋トレ男たちのノリに付いて行けるのだろうか。

 だが、相変わらず五十嵐はきょとんとして、

「来ちゃダメですか?体鍛えたくて」

「え、あんなマッチョになりたいんか?」

「そうですけど……?格好いいですよね、鍛えられてるのって」

 今すぐ、部室を出て、叫びたい。お前たちのマドンナはムキムキマッチョに憧れているらしいぞ!と。きっと夢を持つ男子学生たちは血の涙を流しながら、今のままでいてくれと懇願するに違いない。

 さすがにそんな夢を破りに行くようなことはしないが。淳一郎は顔を引き攣らせて、頬を掻く。

「意外やな……。文化系かと思っとった」

「あはは。運動音痴ですよ。それでも、やってみようかな、て」

 爽やかさのある笑顔だ。五十嵐の周囲だけ、暑苦しさというのが失せ、涼やかな空気が流れていそうだ。

 だがそんな涼し気な空気を、先輩のひとりがぶち壊しに来る。

「ハハハ!五十嵐さん!その精神はとても素晴らしい!」

 わざわざ上着を脱いで、筋肉を見せつける。彼の自慢は広背筋らしい。後ろを向いてムキッとして見せている。ボディ・ビルダーみたいな肉肉しい肉体だ。

 

 結論から言うと、五十嵐は本当に入部し、何故かなんとなく、淳一郎も入部した。固定の活動日は週二回と少なめで、筋肉にしか興味ない彼らは飲み会みたいのもあまりしないというのに気楽さを感じた、というのもあるが――五十嵐を見ているのが面白い、というのが一番の動機だった。

 活動初日から、五十嵐は実に愉快な光景を披露していた。 

「五十嵐さん、マジで運動音痴なんやな……」

 

 近所のトレーニングジムで、淳一郎は思わずツッコミを入れる。他の先輩方がウン十キロというバーベルを持ち上げている傍ら、まずは何も持たずにスクワットをしている彼女なのだが、すぐにへばる。

 淳一郎は高校まで武術系の部活に入っていたのもあって、常識レベルには鍛えてあったゆえ、スクワットくらいはすぐにできた。さすがな腹にベルトをして、デッドリフトとは行かなかったが。

 

 ジムのマットレスの上で汗を拭いていた五十嵐はがっくりと肩を落として、

「うう……怠けたツケだ……」

 

 大学構内では見かけない光景だ。

 講義室などで見かける五十嵐は常に爽やかで、高嶺の花感を醸し出している。活発に会話をする性格たちでもないらしく、女子学生たちと一緒にいるときな、柔和な笑みを浮かべながら相槌を打っている。

 そんな彼女は今、全力で落ち込んでいる。なんというか、人間っぽい。淳一郎は苦笑して話しかけてみた。

 

「なんで鍛えたいん?女の子のダイエットってヨガとかダンスとかそんなイメージなんやけど」

「ダイエットじゃないです。君塚くんくらいにはなりたいなあ……」

「え、俺、けっこうマッチョな方なんやが!?」

 

 と自分のTシャツの下を確認してしまう。淳一郎はすぐに筋肉がついてしまう体質なので、少し鍛えるとすぐにムキムキに。他の男子学生が聞いたら羨ましいというのだが、そういう体質なので致し方ない。

 すると、五十嵐はムッと頬を膨らませて小さく言葉を零した。

「だから、僕はそうなりたいんだよ。貧相なのって格好悪い」

 

 ――僕?


 その一人称に、淳一郎は衝撃を受けた。リアルのボクッ。初めて見たのだ。この時の淳一郎は、五十嵐がなのだと知らず、変わった女の子だな、と感じていた。そして。

 

 ――珍しく、


 と感じていた。

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