086-R_友人(2)


 白い蛍光灯の下、すべてダークブラウンを基調とした物で揃えられている室内で、途轍もなく狭そうにしてその銀髪の男が座っている。この部屋には座椅子とローテーブルしかないので、直にラグの上に座ってもらっている。というか、慣れた様子で勝手に其処に座っていた。図々しいと蓮は思ったが、それくらい悠と親しいのかもしれない。

 

 出せるものもなく、さらにはそもそも他人に茶を出すなんていう気の利いた発想もなかったので、蓮は玄関の扉を閉めると、立ったまま冷たく声を掛けた。

「で、名前は?」

 

 其処には演技も何もない。素のままの蓮である。その様子を見て何かを覚ったのか、その男はおずおずと答えた。

「……君塚きみづか淳一郎じゅんいちろうや」

 

「ジュンイチローね。やっぱ、あのしつこく連絡してた奴か」

 蓮は頭をがしがしと掻いて嘆息する。

 入院中も、チャットアプリで数人から連絡が来ていたのだが、そのうちの一人にまさしくその名前を使っていたアカウントがあったのだ。とくに、淳一郎の名前は漢字のあまり読めない蓮でもギリギリ勘で読めたので、覚えていた。

 

 すると、淳一郎は色付き眼鏡越しに、切れ長の目を瞬かせて言った。

だいぶ、警戒心あるんやなあ」

 

 淳一郎の言葉に、蓮はきょとんとする。

「は?」

「あんた、五十嵐……じゃないんやろ?」

 その発言でさらに、蓮は困惑する。まさか、此処で「あおい」の名でなく、「悠」の名が出てくるとは想像もしなかったのだ。蓮は動揺を隠せないまま、問い返す。

「なんでその名前……」

「なんや、五十嵐からなんも聞いてなかったんか。それとももしかして悠を知らん?」

「いや、悠は知ってる。知ってるけど……てっきり隠しているものかと」

「知っとるのは俺含め、あともう一人だけやで。他はアオイちゃんとか、五十嵐さんとか呼んどる」

 

 それでもいるのだ。そしてそれほどまでに、この男を信頼しているのだ。その事実に蓮は一瞬もやっとしたものを感じながらも、表情には出さないようにした。

 

 淳一郎はそんな、少し挙動不審な蓮に鋭い眼差しを向けて、言葉を続く。

「蒼の話を聞いて、一応そっちを疑っとたんや。驚いてないかと言われれば、嘘になるが……むしろあんたが悠やって言われる方が疑わしいねん。五十嵐、そんなバリバリに警戒心ないというか、無警戒というか。まあ、男を家に上げるといううっかりなところは同じなんやなあ」

 

 淳一郎は、蓮がいざとなれば家の外へ逃げられるよう決して玄関側から退かないことを指摘していた。だがそもそもの大前提として、この体が女であるということを忘れていたのだが……知人と言えど、男女二人きりで個室の中というのは如何なものか。

 その発想はすっかり抜けていた。自分は男だと思っていたし、ハーヴェイとして旅をするときは、いざとなればオリヴィアと共に雑魚寝もしていたので。

 

 蓮はついと顔を背けて、

「悪かったな」

「そっちも性認識は五十嵐と同じなんか?というか、五十嵐だとややこしいか?」

「せ……?いや、俺は苗字ねえから」

 

 困惑。

 知らない日本語が出てきて、蓮は脳内を疑問符で満たす。もはや今の蓮にとって、日本語は外国語なのだ。ギリギリ片言にならない程度には覚えていたので何とか話せているが、それでも語彙のほとんどは小学生レベルなのだ。

 

 淳一郎は驚いたように目を瞬かせる。

「なんや。同じ体でも苗字あったりなかったりするんか?不思議やな。性認識てのは、自分が男と思っているか女と思ってるか、てことや」

「……わざわざ難しい言葉使うなよ……。悠と同じ男でいいよ」

 男でいい、という受け答えの仕方がやや答えになっていないが、吐き捨てるように答えると蓮は壁に凭れ掛かって腕を組む。それでも座れないのは、心を許せていないゆえか。

 

 淳一郎はほうほう、と頷きながらも、続けざまに問いかける。

「なんて呼べばええんや?」

 悠が名乗っているということは、蓮にも名があってもおかしくないと考えたのだろう。事実、名は持っているので、蓮は小さな声で答える。

 

「……ル…………レン」

「ん?レン、でええんか」

「ああ」

「漢字は何なんや?それとも平仮名か?」

 

 まだ質問は続くらしい。蓮は苛立ちながらも、

「んなこと、どうでもいいだろうが……はすって花の字だよ。確か」

「自分の名前なのにいい加減やな」

「俺にとっちゃ日本語は外国語なんだよ。わかるか!」

 思わず、大声を上げてしまう。前のめりになって怒りを露わにする蓮に対して、淳一郎は何ともけろりとしている。

 

「え、何語やったらイケるん?あ、でも俺、外国語は苦手なんや……英語も大学受験以来そない勉強しとらんし……」

「英語は俺もわかんねえよ。どうせ通じねえから日本語でいいよ」

「そりゃあ、助かる」

 へらへらと笑う淳一郎に、蓮は顔を引き攣らせる。なんとも調子の狂う相手だ。順応も早すぎて、蓮の方が置いて行かれそうだ。

 

 するとふと、淳一郎は真顔になった。

「で、現実の話してもええか?」

 

「なんだよ」

「悠の方はどうしたんや?」

 その指摘に、一瞬蓮は言葉を詰まらせた。悠どころか、他の住人たちの声も全く聞こえない。

 

「……今は俺以外、こっちに出れねえ状態なんだ」

「俺は心理学専攻でも、精神医学専攻でもないから詳しくはようわからんけど、つまり蓮しか今生活こなせないっちゅうことやな」

「そうなるな」

「生活どうすんねん?大学とかバイトとか。サークルくらいは休んでも構わへんと思うけど」

 

 その指摘に、蓮は眉間の皴を増やす。それは突然に日本で目覚めてからずっと、考えていたことだ。

 中と連絡が取れない、中に戻ることもできない。つまり、今このあおいの肉体を生かせるのは蓮だけだし、さらには蓮もまた、この肉体で生活するしかないのだ。

 

「……俺が行くしかねえけど…………」

「できそうか?」

「無理、だな。言っちゃあれだが、俺の成績はよくて小学生レベルだし……」

 

 蓮は深く嘆息する。冒険者の中でも、戦士として生きてきた蓮には日本の学生としての常識も知識もない。金銭感覚もないし、目をじっと合わせて話すと気不味くなることもつい最近まで忘れていた。

 

 淳一郎は「ふむ」と独り言つと、ぼんやりとした声で続ける。

「となると、サポートがいるな。バイトは俺と同じ時間にシフト入れるとして、大学は学部違うし」

「が……がくぶ?」

「五十嵐は文学部の哲学、俺は工学部の情報工学なんや」

「ふ、ふうん?」

 

 何を言っているのか全くわからない。悠が「哲学」なるもののことを言っていたから、その名称だけは知っていたが、それが何なのかは全く知らない。情報工学なんて言葉は初めて聞いた。

 

 さらに淳一郎はずけずけと質問する。

「その様子じゃあ、日常生活も不安やな。ガスコンロとか使えるか?」

「……」

 もはや何も答えられない。入院中は病院食、退院後は結局一日しか下宿先で過ごさず、その時はおにぎり一つだけ、カロリーバー一本だけという不健康な過ごし方をしていたので……。

 

 淳一郎は小さく嘆息すると、腕を組んで言った。

「しゃあない。体のことを思うと、女の子の部屋に泊まった方がええんやけど、心は男やからなあ。俺の部屋に泊まりい。大学の方は、アスカイに頼るしかないな」

「あすかい?」

「五十嵐のことを理解しとる、もうひとりの奴や。同じ哲学専攻の女子学生や。かなりの不思議ちゃんやけど……そこは堪えてな?」

 

 全くもって、不安しかない。短気な蓮の中で、キレないという自信が全く持てないのであった。

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