119-[IN]Y_目的(2)


「おはよう、誰でもないあなた」


 悠はゆっくりと目蓋を上げ、目だけで横を見た。

 此処は「五十嵐いがらしゆう」のための部屋。其処は、つい数日前までの様子はない。部屋を埋め尽くしていた本は姿を無くし、書棚は空っぽ。ダークブラウンのカーペットもブラックブラウンのソファもない。あるのは寂れた鉄枠の寝台ベッドと白い布団のみ。

 その寝台ベッドに横たわっていた悠の横に、が腰掛けている。辛うじて人間の形を成している、黒いもやの何か。

「……あなたとは、何処かで会いましたか?」

「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。どちらだって、いいじゃない。どうせすぐに、忘れるわ」

 

 また。

 つまりは、何処かで会っているのだ。

 

 だが、今の悠にはそんなことを追求する気力はなかった。

 狭間で目を覚ましてからずっと、心の隅で気にしていた。どれくらい時間が経過してしまったのかと。早く大学へ戻らねばと。

 だがまさか。

 まさか、取り返しのつかぬほどに時が過ぎているとは思ってもみなかった。

 必死に勉強して手に入れた自分だけのものが、たったの一月ひとつき少しで他人のものに様変わりをしてしまっていた。――否。別のものと入れ替わってしまった。

 友人の淳一郎や三琴にとって、自分は半年もない付き合い。それに比べ、蓮は二年半。彼らにとっては、五十嵐蒼は悠ではなく、蓮なのだ。無愛想で不躾。さすがに敵はいないので、敵に容赦がないことは知らないと思うが――でももしかすれば、知っているかもしれない。

 

 ――それに、僕よりもずっと

 

 悠は顔を手で覆った。

 部屋にある書籍やノートパソコンのメールボックスやピン留めされたサイトなど。そして何よりも、淳一郎の言葉。それらを見て、聞いてわかったことがある。

 

 彼は優秀だ。

 

 たったの半年で、大学生二回生として求められる知識力や理解力を身に着け、二回生以降の成績はす「秀(90〜100点)」。教養科目がなくなり、暗記科目が皆無に等しくなる二回生の後期以降においてもこの好成績は維持されている。

 それでいて、教職科目や外部の資格にまで意識が届くのだから、たちが悪い。

 きっと、蒼という肉体からだがどんな将来にも進めるようにと奮闘した結果なのだろう。今や専門と両立しづらいと言われる教職科目を実習以外片端から履修して単位を獲得し、さらには独自で勉強して英語や簿記、IT技術関連など多岐に渡る資格まで取得している。この受験料のために、個別指導塾の塾講師まで始めたらしい。


 すると横に腰掛けたその靄は、せせら嗤った。

「それに比べ、あなたって出来が悪いのね。残りかすだからかしら」

「……五月蠅い」

 おのれの顔を覆う指の隙間から、その声を鳴らす靄を睨め付ける。

 

 悠はずっと勘違いをしていたのだ。

 中での見た目がよくて中学一年生くらいで、敵かそうでないかという短絡的な思考から、蓮は十二や十三くらいの少年として「止まって」いるのだと思っていた。

 だが違った。

 考えてみれば、当然といえば当然なのだ。十二の時にひとりクロレンスに送られた彼は、「ひとりで」切り抜けたのだ。誰よりもしたたかであるに決まっている。ゆえに彼はクロレンスにおいても、日本においても「彼らしさ」を確立し、認めさせているのだ。無愛想で不躾、そして敵に容赦のない少年こそが彼なのだと――それは、悠にはないものだ。

 

 ふふ、と嗤って、その靄は続ける。

「なら、あなたも認めさせればいいじゃない」

「どうやって?」

「簡単よ。強くなればいいのよ」

「それができていたら、今の自分はいない」

 

 大学の生活も、母親から逃げた結果ていをなしたのだ。確かでない本当のおのれを認めさせる気概も行動力もない。もし、泣かせてしまったら。もし、拒絶されてしまったら。それが恐ろしくてずっと沈黙を貫いていた。

 

「それは甘さや甘えを捨てられないからよ。他人の目なんて気にせず、好き勝手に振る舞えばいいのよ」

「その結果、誰かを傷つけてしまっても?」

「誰かを優先して、あなただけが取り残される。それでもいいのなら、そうすればいいわ」

 

 その言葉は、悠の胸に深く刺さった。母親を優先して自分を隠し、蓮を優先して自分を失った。もしあの時、自分は蒼じゃないと母親や医師に主張していたら。もしあの時、蓮の言うことを聞かずに日本へ行っていたら。

 だがそれでも、悠はその言葉はもやの声に頷けない。

「でも月夜つきよさんは彼とともに探せ、て言いました。誰かと何かをする時って、僕だけの意見ではいけませんよね」

「あなたって言い訳ばっかり。だから、のよ。結果、「ともに」であればいいんでしょう?」

 

 奪われる。

 

 あれは奪われたと言ってよいのだろうか。母親も、蓮も、そのつもりはなかったはずなのだ。母親は愛する娘を追い求めただけだ。蓮に至っては、今後の住人たち――否、悠を思って突き進んだだけだ。

 

 だから、たちが悪い。

 だから、憎みきれない。

 けれども。

 

 この靄の形をした何かの言う通りなのかもしれない。他者を意識して言い訳ばかりして、甘え、自分を甘やかす。そんなことをしていたらいつまでも進まない。進めない。進む?否。そもそも今この時ですらなかったことになってしまうかもしれない。誰の中にも自分は残らず、頭がおかしくなった、演技をしていると片づけられてしまう。

 

 そんなことを、言わせない。これが自分なのだと認めさせる。

 そのためならば他者を踏みにじろうと立ち止ってはならない。


 ふと、悠はあの靄がいなくなっていることに心付いた。その代わり、枠が歪み表面の割れた丸い手鏡が残されている。

 悠は起き上がり、引き寄せられるようにその手鏡を覗き、思わず独り言つ。

 

 「これが今のお前だ、て言いたいのか」

 

 その声は小さく、誰にも届かない。鏡面には、ぼさぼさの黒髪に黒目の少年。顔立ちは比較的あおいに似ている。年齢よわいも相変わらず十代半ばくらい。だが青白い肌に虚ろな目といい、まるで死人みたいだ。視線を下ろして体つきを見ると、前より痩せたように思われる。腕を見ると枯れ木みたいだった。

 お前は存在しない。それは死人と同じだ。そう、言われているみたいだ。

 

 ――そんなこと、言わせない。

 誰にも。自分にも。

 ――僕が、僕で在るために。

 そのために必要なことは、なんだ。

 そのために不要なことは、なんだ。


 すると、コンコンっと扉を叩く音が鳴り響いた。

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