118-Y_目的(1)


 あの倉庫街から逃げるように、蓮と淳一郎は、悠の借りた下宿へ戻って来た。 

 そしてまた、悠は驚かされていた。

 

 部屋の様子がだいぶ変わっている。カーテンやラグなどのファブリック自体は変わっていないのだが、何十キロもありそうなダンベルや腹筋ローラーなどの筋トレ器具が敷かれっぱなしのマットの上に放置されており、バス・トイレの部屋の扉には懸垂用の器具が取り付けられている。

 加えて、買った覚えのない本がローテーブルの上に積み上げられ、さらには小さな猫のぬいぐるみまで置いてあった。黒猫で、大きな目の可愛い猫がちょこんと座ったぬいぐるみだ。

 

 思わず、悠はそのぬいぐるみを指定せずにはいられない。

(……あのぬいぐるみ、何ですか?)

(ジュンイチローがゲームセンターで取ってきたんだよ)

 内心で蓮が素っ気なく答える。悠も淳一郎とゲームセンターで遊んだことがあるので、たまによくわからない戦利品(たいていは菓子の類だ)をおすそ分けしてもらったことはあるが……ぬいぐるみはない。

(それ貰ったんですね……意外というか……)

(んなわけあるか。ジュンイチローが勝手に置いてったんだよ)

 それでも捨てないんだ、等とツッコんではいけないのだろう。蓮の性格ならば、貰い物だからと言っていらないものを置いておいたりしないような気がする、と悠は何となく感じた。

 

 するとやにわに、淳一郎が声を上げた。

「なあ、蓮。地味に晩飯逃したんやけど……」

 悠は知らないが、蓮も淳一郎もバイトの帰りからそのままあの倉庫街へ行っていたのである。今さらに空腹感でぐうう、と腹の虫が鳴り、蓮は言葉を返す。

「今からでもカレー食うか?」

「うーん。もう少し軽いのないんか」

「……ミコトがこの間置いてったヤツでいいか?」

「なんやっけそれ……」

 すでに淳一郎が身構えている。あの三琴が普通の料理をするはずがない、と淳一郎もよく理解しているのである。

 

 洋服も、ロリータにギャル、パンクと一癖二癖ある服しか作らないし、自作漫画や小説はシュール過ぎて何を言っているのかわからないやつしか書かない。他人と違うことがしたいからそうしているのではなく、三琴はそういうものをこよなく愛しているのである。

 悠もそれはよく知っていたので、すでに想像はできていた。カブトムシの幼虫風のグミとか、ミジンコ風のクッキーとかそんなのだろう、と。

 

 すると、蓮は冷蔵庫からタッパーを一つ、取り出して見せた。

「題して、指標化石にもなれなかった昆虫風のグミ、だそうだ」

 

 つまりはゴキブリじゃないか!と淳一郎と悠はほとんど同時にツッコんでいた。悠の声は外には届かないが、蓮には息ぴったりに聞こえたことだろう。

 タッパーの中には再現度の高い、茶色い羽根のてかてかした平たい虫がいた。ご丁寧に、細く糸のようにした人参が触覚代わりに突き刺さっている。

 

「食うか?」

「食うかい!カレーにしとく……さすがにそれはイヤや」

 

 淳一郎は首を横にひたすら振って、全力で拒否している。味も変なのが再現されているのではないか、と疑わしい。蓮はそのタッパーを持ったままゴミ箱の前へ行って、無情にもタッパーごとゴミ箱へ放り込んだ。

「お前がいらねえなら捨てるか」

「あっさりしてんなあ。てかもう捨てとるやん」

「こんなの作る奴が悪い」

 やはり、いらないと思ったものはさっさと捨てる性格である。それがたとえ、友人であろうとも。悠は蓮に届かぬようひっそりと、あの猫、気に入ってるのだろうな、と考えた。

 

 ふと悠が気付けば、淳一郎はローテーブルで寛ぎ、蓮はテキパキとカレーを皿に盛って電子レンジで温めたりしていた。何処に何が仕舞われているのか把握し、家電製品すべての扱い方も熟知している風である。

 

(なんか、日本の生活に馴染んでます……よね?)

 

 悠の言葉に、蓮はぴくり、と手を止めた。だが、何も答えない。ずっと沈黙を貫き、電子レンジがチンッと終了の合図をすると、おもむろに蓮が口を開いた。

「ジュンイチロー。今日って何年何月何日だ」

 突然の問いに、淳一郎が目を瞬かせる。

「は?急にどないしたん」 

「いいから」

「2016年の……十二月二十四日や。あ、そろそろ二十五日か」

 その淳一郎の返答に、悠は息を呑んだ。蓮はじっと電子レンジを見つめたまま、さらに問いを続く。

「で、俺たちの学年は?」

「さっきからどうしたんや。……学部三回生」

「俺がこっちに来てから、もう二年以上、経ってるんだ」

 蓮のその言葉は、淳一郎に向けられたものではない。悠に向けられたものなのだ。

 

 無論、悠は茫然としていた。

 ――二年?二年も……?

 

 クロレンスだと、ひと月しか経っていない。なのに、日本では約二年半も経過していた。悠の知らないうちに、あおいの大学生活は一年と少しになってしまったのだ。

 

 蓮は気不味そうに目を泳がせ、それでも言葉を続けた。

「ジュンイチロー。悠のこと、覚えてるか?」

「忘れるわけないやろ。たったの四ヶ月の付き合いて言ったって、強烈な奴やったもん。まあ蓮も人のこと言えんが……」

 

 そう。淳一郎にとって、悠との付き合いよりも、蓮との付き合いの方が長くなってしまったのだ。悠はそのことに、さらに動揺を覚えた。

 

 悠としての友人や知人が欲しくて、あんなにも苦労して手に入れた大学生活だったのに。蓮は悪くない。蓮からすれば、またしても未知の世界に放り込まれたのだから、むしろいい迷惑だ。不安もあったかもしれない。

 やり場のない怒り。否、虚無感が、悠を襲い、何も言えなかった。蓮はゆえに、共に窓を潜るのを拒んだのである。何の覚悟もなく、現実を見せなければならなくなるから。

 

 蓮は電子レンジから皿を取り出すことなく、項垂れて、淳一郎へ声を掛けた。

「その悠と今、代わってもいいか?」

 淳一郎は「え」と声を上げた。初めに知り合った「五十嵐いがらしあおい」と蓮が異なるのだと知っていた彼は、二年ものの間ずっと、他の住人たちと言葉を交わせなくなった蓮のそばにいたのだ。

「中とやらと話できるようになったんか!?」

 

 前のめりになる淳一郎。だがすでに、その彼と悠は対面していた。

「……うん。そうだよ、君塚」

 

 蓮よりも少し低めに、けれども穏やかめに出された声。発音は明瞭で、蓮のような舌足らずさがない。淳一郎は目を見開き――そのまま悠を抱きしめた。

「五十嵐?久しぶりやんなあ!よかったなあ、蓮!ずっと気にしとったもんなあ!」

 

 彼が久しぶりに悠に会えたことよりも、蓮の懸念が晴れたことを喜ぶのは致し方のないことだ。悠と淳一郎の付き合いはたったの四ヶ月。悠は乾いた嗤いを溢す。

「あはは……君塚からしたら、僕は二年ぶりかあ。ほとんど他人だ」

 

 やや、投げやりさもある声。淳一郎は体を離し、そんな悠の両肩を掴んだ。  

「い、五十嵐。あんまり蓮を責めんといてな。蓮、けっこう頑張ってたんやで。五十嵐が戻って来た時に苦労せんように、て。単位ひとつも落としとらんし、二年になってからは成績優秀をキープしとる」

「うん、蓮さん何も悪くない。わかってるし、怒ったりしないよ。誰も悪くないんだもの。むしろ就職活動に間に合ってよかったよ」

 

 神様というのがいうならば、何とも残酷だ。ようやく前を向き、蓮と話をしよう自分を知ろう、とした矢先に、ひとつ、大切にしていた生活を奪うのだから。悠はな泣きそうになるのを、左の親指を噛むことでただただ、堪えた。

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