054-R+d_不穏(4)


 病院を出たのちをしていたら、雨が降ってきた。すでに真昼時で、雨水の中に排気ガスの臭いがする。

 

 スマートフォンのナビゲーションに従って蓮はバスと電車を乗り継ぎ、悠の一人暮らしをしているアパートのある駅まで辿り着いた。

 コンビニとパチンコ屋が一軒ずつあるだけの、寂れた駅だ。安いアパートや古い家屋、シャッターのしまった店。とても女の一人暮らしをする場所じゃない。蓮は思いっきり眉を寄せるも、とりあえずナビゲーション通りに道をゆく。

 

 傘はさしていない。羽織ったパーカーのフードでどうにかなる雨量である、というのもあるが松葉杖を付いている関係上、手が空いていない。

 

「……ここか」

 

 四階建ての、エレベーターも付いていないような古いアパートだ。電柱横のゴミ捨て場は鴉が散らかしたのか、生ゴミで荒れ果て、異臭を放っている。一瞬、黒くてテカテカとした平たい虫が見えた気もしたが、蓮は見なかったことにした。

 

 だが紫苑は見ないフリができなかったらしい。ひええっと耳の奥で叫んだ挙げ句、あえて口にしていなかったことを口にする。

(想像以上に、すごいところに住んでるね……)

(貧乏学生なんて、こんなもんだろ。……たぶん)

 

 とは言っても、蓮は学生の生活を知らない。言えることは、クロレンスの貧農のほうがずっと汚くて粗末な家に住んでいる、ということだ。

 

 紫苑はいつの間にエスパーになったのだろうか。すかさず、

(クロレンス基準でものを考えちゃダメだからね)

(わかってる)

 蓮は気不味い気分になった。

 

 アパートに入ってすぐ、ふと、蓮はポストに目を留めた。悠の部屋の番号は学生証を見たから知っている。302号室だ――そもそも、ナビゲーションに道案内させられたのも、学生証に住所が記されていたからだ。

 蓮は302と記されているポストの前に立ち、眉間の皺を寄せた。入院してずっと留守にしていたから仕方のないことだが、チラシがこれでもかというくらいに詰め込まれている。なのに、ダイヤルキーが回せない。

 

「……さすがに、ポストの番号はわからねえな」

(ユウのことだから、スマホのメモ帳に書いてたりしない?)

 

 それもそうだな、と蓮はスマートフォンを操作する。メモ帳アプリがあるのは知っていた。入院中に色々と触ってみていた最中に見かけたので。そして予想通り、パスワードの一覧があり、その中にポスト、の文字もあった。

(右周りに1、5、左周りに3……なんかすっごく覚えやすいね。うっかり753て覚えちゃいそうだけど)

 やめろ。そんなこと言われたら、間違えて覚えそうだろうが。蓮はそうツッコミかけて止めた。

 詰め込まれた多量のチラシやハガキの中に、封筒がひとつ差し込まれていたからだ。宣伝目的のものでも、請求目的のものでもない。

 

 質素な白い封筒だ。

 差出人の名も、宛名もない。裏返すと、鳥の形をしたシールで封が留められている。尾が赤と青、緑に塗られた変わった鳥のシールだ。蓮はそのシールをしばらく見つめたのち、やおら口を開く。

 

(……紫苑、クロレンス側の軀が心配だ。見に行ってくれないか?)

(は?このタイミングで?)

 

 紫苑の声は、顔を見るまでもなく面食らっている。だがその理由は口にせず、蓮は手紙を視界に映さないように隠す。

 

(いいから、さっさと行け。あっちは今、無防備なんだよ)

(……わかったよ。レン、何でもひとりで背負い込もうとしないでよ?)

 

 その声を最後に、頭の中からは音がしなくなった。

 事前に他の住人たちには各々の部屋へ行くように伝えてあるので、日本側のリビングダイニングは無人になったはず。否、無人になったのだ。誰かがいれば、寝ていようと足を忍ばせていようと必ず物音が脳内で響く。

 

 蓮は松葉杖でよたよたとしながら、階段を上がった。バリアフリーなんてものは皆無な物件だ。かなり難儀したが、とりあえず三階へ到達し、すぐに302号室へ辿り着く。鞄から鍵を探り当てて取り出すと、蓮はようやく部屋の扉を開けて中に入った、

 

「……まあ、あいつの部屋だな」

 つい、声が出た。

 

 一口のガスコンロとバス・トイレがささやかながらに備えられたワンルームで、すべてダークブラウンを基調とした物で揃えられている。所狭しとばかりに寝台ベッドとローテーブル、座椅子が置かれてあるのだが、その隙間を縫って多量の本が積み上げられている。

 カント、ヘーゲル、ハイデッガー、それにヴィトゲンシュタイン。哲学者の本ばかり。

 

 蓮はその本を崩さぬようにボストンバッグを下ろすと、寝台ベッドに腰掛ける。その手には、先ほどの手紙がある。

 

「赤と青、緑。それに白。なるほど、ね」

 

 それは鳥のシールの尾と封筒の色だ。その色の意味を知る者はきっと、でもおのれだけ。否、かつてはもうひとり、いたのだが。

 ――やっぱり、

 蓮は親指の爪を噛み、思案する。

 

 ――いったい何時からだ?何処にいる?

 

 だが深く考えたところで、あまりにも情報が少なすぎる。蓮はビリビリと音を立てて手紙の封を切り、乱暴に中に収められている便箋を引き出す。

 

 黒い便箋だ。闇夜を閉じ込めたような、真玄まくろ

 その上には、黒い文字で短い文章が記されていた。光に照らして反射させなければ読めない文字だ。

 その、その。蓮は確証を得て、堪らず小さく吹き出す。

 

「……っふ」

 

 それは皮切りに過ぎない。ふつふつと沸き起こる感情に、蓮は嗤い始めた。それはだんだやに激しくなる。寝台ベッドに寝そべって、腹を抱えて。声が嗄れるのではと思われるほどに、とにかく嗤った。

 

「はははは!」

 

 窓の近くに誰もいないがゆえに、それは実に珍しい光景だと気付かれない。

 蓮は、、住人たちの前で笑ったことがない。にこりと微笑んだこともない。彼は日本やクロレンスというでだけでなく、でも、誰にも心を開いていない。――彼を、除いて。

 

 蓮はひとしきり笑うと、ムクリと起き上がる。そこにはもう、あの愉しげな表情はない。すっと真顔になってその手紙を見下ろすと、封筒纏めて縦に引き裂く。細かく、破片になるまでに破り砕く。

 

 そして低く、唸るように声を鳴らす。

「――クソが、巫山戯んな。必ず見つけてやる」

 

 その垂れた黒い目には、仄暗い炎が揺らいでいる。蓮は床に散らかった手紙の破片を睨め付けて、吐きつけるようにして言葉を続ける。

「見つけ出して、ぶっ殺してやる」

 そこには憎悪しかない。蓮は親指の爪を、ぎりぎりと血が滲むほどに強く、強く噛みしめる。

 

「あいつに手を出すやつは、許さない」



 赦さない。


 ぜったいに、ゆるさない。

 

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