053-R_不穏(3)


 次の瞬間、目を覚ますとそこは病院の中だった。

 

 鼻に付く薬品の臭いと、頭上でチカチカと明滅する蛍光灯の光に蓮は不快感を抱きながらも、軀を起こすと、ワゴンを押す職員と目があった。

 ちょうど朝食の配膳をしている時間だったらしい。白服の職員が盆に乗った食事をこちらへ持ってきて、にこやかに挨拶をする。

「あら、おはよう五十嵐さん」

 

 蓮は無言で、一応とばかりに軽く会釈だけはしておく。職員も仕事だ。貼り付けた笑顔を絶やさず、その場を立ち去っていく。――無論、密かに「なんだこの無愛想なヤツ」くらいには思っただろうが。

 

(ちょっとレン、ちゃんと挨拶はしないとダメだよ)

 

 やにわに頭の中で鳴り響いた女の声は、紫苑のものである。蓮は配膳された病院食を頬張りながら内心で、短く言葉を返す。

(五月蠅い)

(他の子が外に出たとき、気不味くなるじゃないか)

(……)

 すでに日本側ので暮らす住民たちに言われていることである。蓮はムッと顰め面をしながらもとりあえず無視を決め込む。

 

 だが、紫苑は蓮の無言を許さない。

(それに今日、このあと退院だろう?なおさら、付き合いのある人間と会うかもしれないのに)

 

 蓮はふと、箸を止めた。

 が、わざわざ睡眠を取らず、毎日のように日本へ顔を出している理由である。蓮はまた味噌汁の入った椀を口元に運び、心の中で答える。

 

(まずは観察だけするつもりだから、問題ない)

(大アリだよっ。ユウが戻ったとき友情にヒビ入ってたらどうすんのさ!)

(……努力はする)

 

 蓮は少しだけ、気不味そうにした。ここで悠の名前を持ち出されると、蓮はきっぱりと撥ね退けられない。紫苑はいる。

 話すことがなくなったのか、紫苑の声は急に止んだ。蓮は眉を顰めながらも、とりあえず白米を口の中に放り込み、軀に栄養補給をする。うっかりハーヴェイの方はし損ねたが、まあ大丈夫であろう。現代日本の人間よりは確実に飢えに強く丈夫だ。

 

 すると不意に、再び紫苑が声を鳴らした。

(もしかして……疑ってる?)

 

 少しだけ低く、声の量を落としている。確証はないが、確信はある、と言ったところか。蓮は箸を起き、小さく嘆息する。

 

(杞憂ならそれでいい。でも、あいつが戻る前には確かめておきたい)

(……君が体を張るわけだ。いつもは他人なんてどうでもいい、てスタンスのくせに、ユウのことになると別になる)

 

 紫苑のその言葉に、蓮は何も返さない。松葉杖を使って寝台ベッドから立ち上がり、持ち込まれた着替えや本などをボストンバッグに詰め込んで、出て行く支度をする。

 

(あれ、お母さんは来ないんだっけ?)

(向こうは強風とかで飛行機が止まったんだと)

 

 ちらりと蓮は窓の外を見る。季節の境目にありがちな、不安定な天気である。どんよりとした鈍色にびいろの雲が空を覆い隠している。そのうち、一雨来るかもしれない。

 ぎゅうっと頭の奥が締め付けられるような痛みに、蓮は顔を歪める。どうにもこの軀はヤワで困る。ようは偏頭痛なのだが、気圧が変動する都度にこれは気が滅入る。それに、なんだか腹も重くてキリキリする。

 

(クソ)

(え、なに?どうしたのさ?)

 

 この軀の気怠さは、他の住人に伝わらないらしい。時々、伝わる住人もいるのだが……まったくもって、不思議で愉快な軀である。

 蓮はボストンバッグから悠のスマートフォンを取り出し、ロックを解除した。手振れの悲惨な景色の画面の下、緑色のアイコンをクリックしてチャットツールを起動させる。一応、この軀の母親から連絡が来ていないか確認しておくのである。

 

 悠はよほど写真を撮るのが下手くそらしい。手振れフィルターをも吃驚な振れ方のした黒い野良猫の写真がアカント画像になっている。もはや金色の目が縦に伸びていて、ホラーだ。

 それを見て、紫苑が吹き出し、大笑いする。きっとソファを叩いているのだろう。バシバシという音まで鼓膜を突く。

 

(おい、五月蠅いぞ)

(ごめんごめん。それより、それがイマドキのチャットアプリって奴?地味に初めて見たなあ。右側が自分で、左側が話し相手?わかりやすいじゃないか!時代も進歩するものだね)

 

 もはや発言が若者でない。蓮は周囲に気取られぬ程度に顔を引き攣らせて、ツッコミをいれる。

(何処のババアだ)

(君だって見た時はまず、それが携帯電話だってわからなかったじゃないか)

(黙れ)

 

 日本の軀であるあおいが交通事故に遭ったのは十八歳の、高校三年生のとき。そのときは未だ、スマートフォンがそんなに普及していなかったのである。いわゆるガラケーと言われるものが一般的で、その時はメールが当たり前。誰かとリアルタイムで会話するなんて、Tw◯tterくらいだった。

 

 くすくすと笑う紫苑は「でもさ」と話を突然に変えた。

(ユウは少しというか、かなり警戒心がなさすぎだね)

 

 蓮は沈黙した。それは、何となく蓮も思っていたからだ。

 そもそもなぜ今、さらりとスマートフォンのロックが解除できたのか。冗談で誕生日を入力したら開けてしまったからである。まったくもって、セキュリティ意識が仕事をしていない。

 

 しばらく何とも言えない気分になっていたが、ピロンッというスマートフォンの通知音で、蓮は我に返った。スマートフォンを持ち上げて、その通知の内容を一瞥すると、蓮は少しだけ眉根を寄せた。

 

(どうしたんだい?誰かから連絡……)

 きっと今、紫苑は窓を覗き込んでスマートフォンの画面を見ようとしているだろう。蓮は咄嗟に画面を消して読めなくして、言葉を返す。

(気にするようなことじゃない)

(いや君、明からさまに隠したよね?)

(気の所為だ)

 強く言い切って、押し切る。頭の中で紫苑が訝っているような声を鳴らしているが、蓮は無視をし、ボストンバッグを担ぎ松葉杖をつく。

 

(時間だ。退院手続き、してくる) 

(はいはい、そうかい。――……ちょいお待ちよ)

 まだ何か話があるのか。蓮は歩きだすのを止め、眉根を寄せる。

(……なんだよ)

(そこ、クロレンスじゃないけど、ちゃんとお会計できるのかい?)

 つまりは、紙幣や硬貨の単位覚えてるか、カード決済ならカードの使い方を知っているか、と問うてあるのである。

 蓮は青筋を立て、ギリギリ声にならないようにこらえながら、一喝した。

(余計なお世話だ!)

 

 

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