055-[IN]Y_亀裂(1)


 の個室で、悠はぽつんとブラックブラウンのソファに腰掛けていた。

 ハーヴェイとオリヴィアがオールトン山脈へ向かって、何日が経ったであろうか。時おりクロレンス側の窓を見てその様子を見ているが、蓮を直接見ることはめっきり無くなった――否。直接なくなった。

 

 初めて気がついたのは、三日前の明朝。

 

 玄関には、決して近寄るな。

 その蓮の言葉を守って、クロレンスが昼の時はクロレンス側のリビングダイニング、それ以外は自室に籠もるようにしていた。

 だが、何となく気になった。音が、気配がしたような気がしたのだ。それで、まだ寝起きで寝惚けてはいたものの、悠はこっそり自室の扉を開けて、隙間から玄関の方を覗き見た。


 ――え、蓮さん?

 

 ドキリとして、慌てて扉を閉める。

 今日もずっとクロレンスへ出ずっぱりだったはずの少年が、玄関の向こうから出てきたのだ。てっきり、そばらくずっとには戻らないのだと思っていたのに。

 

 悠はそっと自室の扉を開けて見ると、玄関の前にもうひとり、姿があるのに心付いた。煉瓦色れんがいろのウェーブのかかった髪に垂れ目をした、筋肉質で猛々しい女――紫苑だ。

 

 どうやら彼女もまた日本側から出てきたらしく、蓮の腕を掴んで、忍び声を鳴らす。

「レン、たまには休まないと」

 

 ひそひそと、けれども何処か切羽詰まったような声だ。蓮は紫苑の手を振り払い、見上げて睨め付けて言葉を返した。

「五月蠅い。急いでるんだから、邪魔すんな」

「でも、連日休み無しじゃないか。それでこのままクロレンスへとんぼ返り?まさか、退院してからもずっと寝ないつもりじゃないよね?」

 紫苑はわずかに声を大きくして、蓮へ詰め寄る。だが、蓮は紫苑と話をしようともしない。つい、と視線をそらし、すたすたとこちらへ歩いてくる。

 

 咄嗟に、悠は自室の扉を閉め、息を殺した。隠れることに意味があるのかはわからないが、何だか見てはいけないものを見たような、そんな気分だ。

 

 ――退院?

 

 悠は内心で復唱する。日本側から出てきて、退院という話が持ち上がる。間違えなく、あおいの話だ。ゆうがここに現れる直前、日本側の軀であるあおいは人生二度目の交通事故に遭っていた。かなり派手に負傷した記憶があるから、入院していてもおかしくはない。

 

 だが、問題はそこではない。

 

 あおいとしてつい最近まで生活していた悠に内緒で、蓮があおいとして外部に接触している。いったいなぜ?最近の日本の生活に最も慣れ親しんでいる悠を頼った方が確実なのに。

 資金や衣食住などの日常生活は、問題ないのか。友人や母親との意思疎通コミュニケーションはどうしているのか。

 

 それになによりも。

 

 クロレンスと日本の生活の兼任をしている、ということはまったく睡眠が取れていないということ。このの住人は睡眠を取らなくても生きていけるのか。たとえ死ぬことはないのだとしても、眠気というものがあるのは知っている。どうしようもなく眠くてたまらない、なんてことは悠も幾度となく経験している。少なくとも、その眠気は我慢しているということになる。

 

 なんでそこまでして?

 

 ずっとクロレンスで生活をしていた蓮にとって、日本はきっと異世界だ。どうやら、あおいが一度目の交通事故に遭遇する前の日本は知っているようだったけれど。

 でもそれは四年も前のこと。この四年間で、悠の生活は大きく変わっている。母親から離れ、それまで行ったこともない場所で一人暮らしをして、バイトやサークルをして、何よりも「男」として暮らしている。四年というブランクに加えてこの大きな変化に対応しながら、毎日徹夜。そこまでする理由は、何だ?

 

 そんな疑問に頭を捻りながら、今日を迎えていた。気取られぬ程度に自室の扉を開けて、悠は廊下の様子を聞いていた。

 

 ――今日も、行くんだ。

 

 紫苑以外には気付かれぬようにしているらしい。蓮はいつも、クロレンスがすっかり夜になって、リビングダイニングに住人がいなくなった頃合いを見計らってに入り、そのまま日本側へ直行。クロレンスが朝を迎える頃にクロレンス側へ戻っている。

 

 蓮が玄関の向こうへと消えたのを認めると、悠は廊下に出た。

「……なんで僕にはなんにも言ってくれないんだろ」

 

 冒険者としては何もできないかもしれないけど、日本の生活ならば比較的何でもこなせる。さすがに包丁を振り回す無差別殺人犯を相手にしろと言われたら、無理としか言いようがないけれど。

 ――なんだかすごく切実そうに、言ってたな。

 玄関へ近寄るな。きっと、日本へ行くなと言っていたのだ。

 

 あの少年は気を遣うなんてことはしないし、興味のないことにはとことん冷たい。一度ひとたび相手を敵と見做せば、攻撃的になり、とことん追い詰める。

 それはハーヴェイの私生活を見ていれば自然とわかることだ。オリヴィアは言った。ハーヴェイは無愛想で、不躾で、敵には容赦のなく残忍。

 そんな少年が、心から悠を思っているような、そんな切実そうな顔をして、「お願い」をする。あれは命令のように聞こえて、その実は嘆願だ。お願いだから、従ってくれ。そう、聞こえた。だから、聞き入れて従った。

  

「あれ、ユウ?」


 突然に、紫苑の声が真横から鳴らされて、悠はビクッと飛び上がる。

「わっ、紫苑さん」

 いつの間にか、日本側から戻って来ていたらしい。背の高い女が強さのある垂れ目をこちらへ向けて、きょとんとしている。

「もしかして、見ちゃった?」

 見ちゃった、とは何処までを見た、という意味だろう。悠は目を泳がせながら、一応に白状する。

「玄関へ入るところまでは……」

「あちゃあ。レンには内緒にしといておくれよ。誰にも知られたくないみたいだからさ……て言いたいけど、そうも言ってられないんだよなあ」

 

 紫苑は深々と息を落とす。彼女は住人たちを束ね、導く役割を担っている、と言っていた。相手を尊重したいという個人としての立場と、を正すべきである纏め役としての立場の葛藤に苛まれているのだろう。

 ふと思い当たり、悠は何となしに尋ねてみた。

「蓮さん、いつから日本に行ってるんですか?」

 気が付いたのは三日前だが、いったい何時からあの少年は無茶な真似をしているのだろうか。少なくとも、オールトン山脈へ向かい始めた時には通っている……そんな気がするのだが。

 

 すると、紫苑は困り果てたように頭を抱えた。

「君がこっち来て、毎日かな。たぶん。この間の、ハーヴェイとして出発するまでは一時間程度寝てたから、ぼくも検知が遅れたんだよ」

 

 思わず、目を剥く。

 それは一月ひとつき前だ。朝にソファの上で眠っている姿を見かけていたから、悠も気が付かなかった。

 おのれがいち早く気付くべきだったのに、と紫苑は眉間を指で押さえ、苦しげに声を溢す。

「さすがに限界のように思えるのに……あの子、決めたら突き通すたちだから困ったもんだよ」

 やはりわからない。なぜ、そんなにも。

「どうして蓮さんは、そんな無茶をするんですか?」

「さあ……ぼくにも、わからないな」

 自嘲するように、紫苑はハッと鼻で嗤う。その言葉尻に、悠は眉を顰めた。まるで誰かならばわかる、という風だ。

 紫苑はゆっくりと、言葉を続けた。

  

の関係は、誰も知らないから」

 

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