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001-Y_憑依(1)※改稿済


 五十嵐いがらしゆうは突然に我に返った。


 其処は人通りはなく、車の往来もまばらな寂れた商店街の一角。

 聞こえてくるのは、コンビニの傘越しに打ち付ける激しい雨音のみ。窪んだアスファルトの隙間には大きな水たまりができ、幾つものの波紋を作っては次々と広がっていく。湿り気を帯びた強い風が吹く都度つどに、木々は騒々ざわざわと音を立てている――ゆうは一人横断歩道の前に立っていた。


 ――何をしていたんだっけ。


 じんわりと茹だるような暑さの所為か、頭がうまく回らない。だが暫くしてようやく、悠は自分が今、バイトからの帰り道であることを思い出した。

 ――疲れてるのかな。

 大学が夏休みだからと、バイトを入れすぎたのかもしれない。悠は意図せず、左の親指の爪を噛んだ。その手首には、一筋の傷跡があった。


 ――、もう一年以上経つのか。


 それは2012年の十二月のことだった。

 クリスマス・イヴを目前に控えた冬の夜で、肌寒く、吹き付ける風の音が激しい日だった。悠は病院の寝台ベッドの上で目を覚ました。偶然に病室の前を通りがかった看護師が目覚めた悠を見るや、先生、先生、と大声を上げて大騒ぎになった。

 

 悠はずっとこの病院で生死の境を彷徨っていたのだ。

 びょおびょおと泣きながら、母親が悠にそう伝えた。残業をしていたというのに、かなり慌てて職場から駆けつけてくれたらしい。彼女の藍色のパンツスーツは皺くちゃになり、右足のパンプスのヒールが折れていた。

 まだ寝とぼけた頭で、悠は母親に問うた。

 

「ねえ、父さんとみおは?」

 

 悠の最後の記憶は、2011年の二月の高校三年生の冬の朝だった。東京で珍しく雪の積もった日だ。

 父親が悠とその妹の澪を学校まで送ると言って、車を出してくれた日だ。非日常の光景に、車の中で妹は大はしゃぎをしていた。そしてあと少しで妹の小学校、というところだった。そこで、対向車線から大型トレーラー車が勢いよく突っ込んできたのだ。

 

 悠の記憶は、其処で途絶えていた。

 

「あなただけでも助かって、本当に良かったわ。お父さんと澪ちゃんのぶんまで、二人で頑張っていきましょうね」

 

 母親の言葉で、父親と妹がもうこの世にいないことを悠はさとった。それと同時に、茫然とした。

 

 ――もう、父さんや澪とは会えないのか。


 何故、自分だけ生き残ってしまったのか。信じられず、嘘だと悠は大声で泣き喚きたかった。だがしかし、不思議と涙も声も出なかった。

 

 その後、主治医の斎藤医師が悠の元を訪れた。悠はMRI検査を受けたのち、簡単な認知テスト――指が何本見えるか、ボールペンで文字が書けるか、といった、本当に簡単な試験だ――を受けた。その途中、斎藤医師が問うた。

 

「じゃあ、君のお名前と生年月日、それから年齢を教えてくれるかな」 

五十嵐悠いがらしゆう、五月八日生まれ、十八……いえ、二十です」

 

 悠がそう答えると、突然に斎藤医師が口を噤んだ。そしてそれと同時に、母親が声を上げた。

「何を言っているの……?」

 語気の少し荒らげた声だ。母親は狼狽した面持ちをして、唇を戦慄わななかせていて言葉を続けた。

「あなたのお名前よ。悠なんかじゃあないでしょう」

 

 斎藤医師は取り乱した母親を宥めると、悠に彼自身の高校の学生証を見せながら言った。 

「落ち着いて聞いてほしい。君のお名前は、「五十嵐蒼いがらしあおい」さんなんだ」

 

 その学生証には、高校の制服を着た悠の写真と、「五十嵐蒼」という名前があった。最早、何が起きているのか。訳が分からない。

 唖然としている悠を他所よそに、斎藤医師はMRI画像を見ながら、母親に伝えた。

「脳に大きな異常は見られません。一部の記憶に混乱はあるようですが、生活していくうちにきっと落ち着くことでしょう。ただ……。この症状が続くようでしたら……心療内科へ受診することをお勧めします」 

 

 母親いわく、「悠」は蒼が愛読している小説の主人公の名前らしい。

 齋藤医師は、この小説の人物と自身を混同してしまっているだけに違いない。そしてそのうち、すぐなのか、何年後なのかははっきりとは言えぬが、自分が「五⼗嵐蒼」であることを取り戻すであろう、と言った。

 何というこじつけか。悠は納得できなかった。彼にはしっかりと「五十嵐悠」として過ごしてきた記憶がある。だが母親の悲壮な顔を見ると、何も言えなくなってしまった。

 

 だが苦難はそれだけに留まらない。退院して実家に帰ると、悠はさらに困惑した。

 

「五十嵐蒼」があまりにも悠とかけ離れた人物だったのだ。 

 表面上は学校に真面目に通い、授業を受けてはいたようだが、友人は一人もおらず、一人教室の隅で漫画や小説ばかり読んでいたらしい。

 家でも家族と会話することは稀で、自室に籠ってやはり漫画や小説ばかりを読んでいたようだ。「五十嵐蒼」は安っぽい異世界転生もののファンタジー小説を特に好んだようで、部屋の中はそのような文庫本で溢れかえっていた。

 

 趣味ばかりをしていて、スポーツも勉学もまったくできない。成績表は散々たるものであった。いったい何が何なのかわからない――「五⼗嵐蒼」の部屋の中で、一人頭を抱えた。 

 しかし母親の、「五⼗嵐蒼」までも失うのではないかという不安げな顔を見ると悠は「五⼗嵐蒼」ではない、とはとても言い出せなかった。悠は仕方なしに、「五⼗嵐蒼」を装うことを心に決めた。

 

 そして今年2014年の四月。

 五月で二十二になる悠は実家から遠く離れた地⽅国⽴⼤学の⽂学部に進学した。

 

 「五⼗嵐蒼」の悲惨な成績では、何故志望したのかわからないレベルの、合格圏外の大学ではあった。

 だがそれでもどうしても、「五⼗嵐蒼」を知るものが誰もいない場所に悠は行きたかったのだ。彼は母親を悲しませたくはないと感じるその一方で日々、「五⼗嵐蒼」を演じることに嫌気が差していた。

 

 ゆえに彼は家を離れるまっとうな理由を探し、そしてその理由として大学への進学を選んだのだ。

 その大学進学を叶えるため、悠は並々ならぬ努力をした。「五⼗嵐蒼」のように頭の悪いフリをしつつ少しずつ成績を上げていくという、ある種の名人芸をこなし、そしてついに退院して一年足らずにして志望大学の合格という快挙を成し遂げた。相変わらず「五十嵐蒼」と名乗る必要はあったものの、「五十嵐悠」として過ごす日々を手に入れたのである。




※2011年2月の描写のみ、演出上の問題で天気情報を誤魔化しております。悠の出身地で、積もるほどの雪は観測されておりません。

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