002-Y_憑依(2)
信号が青になった。
いつの間にか雨も小降りとなっている。今日の夕飯の献立は何にするか、たまった大学の課題の期限は何時だったかなど、なんてことのないことを考えながら、悠は横断歩道へ足を踏み出した。その瞬間。
――――キキキキィ
黒板に爪を立てるような、耳障りな音が鳴り響いた。すぐ傍にある曲がり角から、高速度で走る一台のスポーツセダンが現れたのである。
――避けなくちゃ。
と思うが、体が強張って動けない。不味い、と思った時はすでに遅かった。その次の瞬間、悠は横断歩道の外へ放り出されていた。
衝撃で手元を離れたビニール傘や鞄が、宙に舞うのがよく見えた。鞄からはスマートフォンや書きかけのレポート用紙などが飛び出して、散乱する。それらすべての動きはあまりにもゆっくりで、悠は瞬きすら忘れていた。
――ガンッ!
現実に引き戻されるのは一瞬だった。悠はゴム毬のように地面を跳ね、道路脇にそびえ立っていた街灯へ背中から叩きつけられた。車が電柱か何かに激突した音と同時に、自分の体から、ごきり、と骨が折れるような音が耳に届いた。
息が詰まり、意識が白み――気がつくと、
降り続いていた雨もすっかりと上がっている。あまりの非日常に思考が混沌とし、自分が地面に仰向けになっていると理解するのに数秒の時間を要した。
だが自分の置かれた状況をはっきりと意識した、その刹那。背から熱を伴う痛みが稲妻の如く全身を駆け抜けた。
――痛い。
――苦しい。
肋骨が臓器に突き刺さったのかもしれない。肺に空気を送りこもうとすると、喉の辺りに熱いものが支えて息をするのもままならない。何とか息を吸い込むと、ごぼり、と生暖かくてどろりとしたものが悠の口元から零れ落ちる。
力なく投げ出された自分の手の方へ目を向けると、チカチカと点滅する街灯に照らされ、赤黒い液体がてらてらと光っていた。
――このまま僕は、死ぬのだろうか。
ふと、そんな考えが脳裏に過ぎり、悠は恐れおののいた。
誰もいない、誰も来ない。何故か車の運転手も降りては来ない。
呼吸をする都度に気管からヒュウヒュウと笛を空気が通り抜けるような音が鳴り、視界が次第に暗くなり音が遠のいていく。それらが更に悠を恐怖させた。
――嫌だ、死にたくない。
苦労してやっと、「五十嵐悠」としての暮らしを手に入れたのだ。
大学生活も波に乗り始めたばかりだ。学部でもサークル活動でも、友人ができて、教授たちとの関係も良好になりつつある。飲み屋や本屋のバイトも決まって。これからだ。これからなのだ。
――死にたくない。誰か、助けて。
衝撃で起動したのだろう。スマートフォンの画面上で、「2014/8/24 18:13」と表示されていた。だが誰も操作しないその画面はスリープモードへの移行と同時にふつりと途切れ――悠の意識もまた、其処で閉ざされた。
✙
騒騒と、嵐が葉を揺らすような音が聞こえる。否。人が何かを騒ぎ立てている音のようにも思える。
何の音だろうか。
僕は、死んでしまったのだろうか。
では、ここは天国だろうか。地獄だろうか。
もしも。
そして若しも、生まれ変われるのであれば、次は自動車に呪われていない人生を歩みたい。
大型トレーラー車の次はスポーツセダンに跳ねられるだなんて、きっと自動車の神さまに嫌われていたのだろう。
前世で、自分はいったい何をやらかしたのだろう。カール・ベンツか豊田喜一郎にでも喧嘩を売ったのだろうか。あれはとても痛くて苦しかったから、もう二度と経験したくはない。
「……う」
遠くから、誰かが呼んでいるような、そのような気がする。天からの迎えか何かであろうか。
「……きろ…………う」
誰だろうか。何処かで聞いたことのあるような気もする。
「……起きろ、悠」
✙
突然に、悠は目を醒ました。
――此処は……何処?
頭の下には柔らかい枕のようなものが敷かれており、体の上には薄っぺらい布が被せられている。悠は、どうやら蒲団の上に寝かされているらしいと感じた。――いつの間に、家へ帰ったのだろうか。それとも、此処は病院なのだろうか。はたまた、天国が地獄なのだろうか。
のろのろと起き上がって周囲を見渡すと、悠は唖然とした。
此処は、一体何処なのか。
其処は悠の知る、安いワンルーム・マンションの一室でも、病室でもなかった。ましてや天国でも、地獄でもなさそうなのだ。
其処は、ジェイン・オースティンの“高慢と偏見”に出てきたような、古めかしく薄暗い洋室であった。
白い格子状の枠に、小さな硝子が嵌められた窓、煉瓦で作られた暖炉。暖炉の右手には、小さな木造の机があり、机の上には三尾の
悠の体を覆っていた掛蒲団も自身のよく知る、NIT〇RIのシーツが掛けてあるそれではなく、小花模様の刺繍が施された
「え」
悠は思わず声を漏らした。その声もまた、聞き覚えのない、低いとも高いとも言えぬ、性別を感じさせぬ声だ。
慌てて寝台から飛び出し、机の上にあった鏡を掴んで覗き込むと、悠は驚愕した。
悠は、何処にでもいる日本人の姿をしていたはずだ。否、言うなれば周囲には「美人だね」とは言われる類の容姿だったが、それでも日本人である。
だがどうだ。鏡の中にいる自分は何処からどう見ても、日本人ではない。小麦色の肌をした西洋的で少女めいた顔立ちをした少年だ。しかも、鼻筋のすっと通ったなかなかの美少年である。
猫のように切れ上がったアーモンド形の目の奥にあるのは
鏡から目を離し、下を見ると、身に着けているのはUNI〇ROのTシャツやデニム・パンツではなく、見覚えのない膝丈の麻のシャツ一枚だった。
どういうことなのだろう、と悠の困惑は止まらない。
「五⼗嵐蒼」がこよなく愛するファンタジー小説の如く、別の誰かに成り代わりでもしたのだろうか。悠は思考が混沌としたまま、
やはり、と言うべきなのだろうか。
其処は見慣れた日本の地方都市ではなかった。赤茶色をした煉瓦造りの建築物が立ち並んでおり、遠くには碧い海が目映く輝いている。
建物の合間には石畳の大きな通りがあり、小洒落たシルクハットを被った男や裾が踝まである膨らんだ優美なドレスの貴婦人、など日本どころか、現代の西欧でもほとんど見ることがないであろう服装の人々が行き交っていた。
何もかもについて行けず、悠はその場でへたり込みそうになった。その時。
ガシャン!
突如、背後から陶器のようなものが割れる音がした。
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