152-Y_研究院(3)


 ウィリアム・アディントン博士の研究室は、イェーレン国立研究院の別棟五号館の三階にある。

 別棟五号館。

 他の別棟や本棟と比べて利用者が少ないらしくひっそりとしている。掃除もさほどされていないらしく、錆びれた階段には蜘蛛の巣が張り巡らされ、床の上を小ネズミが走り回っている。クロレンスがもっと南の地域の国であればきっと、この床を這い回っているのはあの黒い虫であったのだろう。何はともあれ、現代日本に生きる悠からすれば、酷く不衛生な場所である。

 

「いやあ。きったない場所ですたネェ」


 ぞろぞろと階段を上がっている途中、ロルフが第一声を放った。その横を並んで歩いていたサイラスは片眼鏡モノクルの奥で顔を顰めて、

「……誰も指摘しなかったことを口にするな」

 

 ネズミが何も珍しいわけではない。何ならば、排泄物を窓から投げ捨てるような衛生観念の国である。

 その臭いの凄まじさに、悠は未だに慣れないでいる。ハーヴェイの五感は人外なので、なおさらのことである。嗅覚は慣れると気にならなくなるので、日本と行き来しないですんでいる今はマシなものだが、行き来するとどうしてと一度鼻がリセットされるので苦痛この上ない。

 

 そんな不衛生な国の住民たちですら、汚いと称する理由。それは此処がまるで倉庫のように椅子やら机やら本やらの物が積み上げられ、その上に埃のヴェールが被さっているからである。一度くしゃみをすれば、視界が白むくらいなは降り積もった埃である。とても人間が生活している空間ではない。

 

「見事に、人間が行き来するところだけ白くないんですね……」

 声を忍ばせて悠は言葉を溢す。悠はアーサーと共にウィリアムのすぐ後ろを歩いていた。そのすぐ後ろをジェイコブが歩いているため、背の低いハーヴェイの視線である悠は壁に囲われた気分である。

 

 階段を上りきり、廊下をまっすぐ進んでいるとだしぬけに、ウィリアムが足を止め、ぐるんとこちらを見た。

「少年。君の宝石も実に興味深い」

「……!」

 

 驚かない方がどうかしているだろう。思わず立ち止まったのは、悠だけでなくアーサーや、その後に続くメンバーたちもだ。

 ジェイコブの横でコリンが頬を引き攣らせたのは言うまでもない。あの眼球好きが、ハーヴェイの瞳も見逃すはずがない。透き通った黄金色の瞳。それはまさに、太陽の光を浴びて輝く琥珀アンバーだ。

 

 悠が眉を顰めていると、ウィリアムは声の量を落として言った。

「それは災いを予見する、黄色おうしょくぎょくの輝きだ」

「……は?」

 

 突然のオカルトチックな発言に、悠はいっそう眉を寄せる。

 災い。予言。

 急にノストラダムスか。

 クロレンスの学問体系を悠は知らないが、現代国家ではないので、別に医学者が神学や哲学を修めていてもおかしくはないだろうことは予想している。だが、此処に来て突然に目の色がどうのと非科学的な発言をされ、面食らわないというわけではない。

 

「星座占いや血液型占いみたいな話ですか?別に、探せばいるでしょう。こんな目の色の人間」

「色ではない。そのなさだよ、少年」

 

 この巫山戯た男が何を言っているのかわからない。ゆえにたじろぐばかりで、言い返す言葉が思い浮かばない。

 悠が息を呑んで黙しているかたわら、ウィリアムはおもむろに歩き始めた。ゆったりとした足取りで進み、一室の前に辿り着くと、芝居がかった仕草でドアノブに触れて彼は続けた。

「君はこの世界の成り立ちを知っているかな?この世界を照らし形作る光と、絶え間なく移ろう輝きを」


 その時。その瞬間。

 

 キイン、と耳鳴りのような音が悠の頭の中で響き渡った。それは頭蓋を破るような、締めるような激しさがある音だ。耐えられず悠は頭を抱え、蹲った。

 ――何。急に。

 音は激しさを増すばかりで、悠はぎゅっと目を瞑る。勘弁してくれ。まさにそう叫び出したいほどの苦痛。

 

 だがその音は突然に失せた。

 むしろ静かすぎるくらいで、悠は驚きで顔を上げ、そしてを見た。


「え、狭間はざま?」

 

 全てが一面星空の空間だ。だがほとんどが黒塗りで、星は疎ら。全てが黒いがために境界線はなく、上下も左右もすべてが同じ。ゆえに悠はおのれが立っているのか座っているのか、はたまた吊り下げられているのかすら判別つかずにいた。

 

 ゆらり、と闇が蠢いた。

 その闇はひとつの人形ひとがたに成った。


 その人形は見覚えがあった。全てが夜色の、おかっぱ頭の少年――ブラックだ。彼はじっと悠を見つめ、さしてついと指さして言った。

 

「気を付けよ。お主のすぐそばまで、はいる」


 嵐のうねりのような、おどろおどろしい声だ。ブラックのものではないし、様子からしても彼ではない。

「あなたは……何者ですか?あれらっていったい?」

「我は昼と夜の狭間を保つ者」

 そう一つ目の問いに答えると、腕をおろし、その黒い人形はゆらりと歩み出した。足音はない。彼は無音で一歩一歩悠へ歩き寄り、そして立ち止まった。

 

 その彼の目は見開かれていた。

 どうしたのだろう、と悠が様子を窺っていると、彼は空を仰ぎ見た。

「あれらとは、虚ろなモノたち。あれらは世から我らを覗き見ている」

 

 虚ろなモノ。

 ロルフはそれを昼と夜の境を彷徨うものと言った。

 

「何故、覗き見ているのですか?見られると、何か不味いのですか?」

「あれらには器があるようでなく、魂があるようでない。ゆえにあれらは不定で不明瞭。ゆえにあれらは欲するのだ」

「……何を?」

「確かなものを」

 

 彼の手が伸び、避けるよりも先に悠の頬に触れていた。ひんやりと冷たく、まるで生きている様相がない。その手は悠の目の下をなぞり、続ける。

まなことは世界を象り、宿させるもの。けっして奪わせてはならない。まなこさいが閉ざされた時、お主は形を失うだろう」

 その声がんだ時、アオーン、と何処か遠くから狼の哭き声が鳴り響いた。それは何度も鳴らされ、幾重にも重なり、うねりのような音へと変容していく。そして人形ひとがたもまた、変化する。

 

 其処に立っていたのは、だ。

 姿を変えた人形ひとがた姿を前に、悠は直感した。その人形は虚ろな黒いまなこで悠の「今の」姿を映し、口の端を不気味に吊り上げている。

 

 悠はそのに、手を伸ばした。

 あれこそが、おのれの求めるもの。

 だが、手で触れた瞬間、その人形の目はぐずりと形を崩し、夜色の涙を流した。そしてその崩れは連鎖し、顔から首、首から胴が汚泥のようになって流れ落ち、そして最後には――。

 

「――待て!」


 無意識に、悠は叫んでいた。

 だが、それは自分の声ではなく、ハーヴェイのものだった。そして伸ばした手の向こうには、アーサーたちの姿があった。

 

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