057-[IN]Y_亀裂(3)


 二十を過ぎた大人がみっともない。

 なんていう考えは浮かばず、悠は泣いた、蓮の手にしがみついたまま、びょおびょお泣いた。

 

 空いている方の左手をおろおろさせて、蓮は悠に声を掛けた。

「お、おい……悠……」

 

 だが矢張り、悠は答えられない。応えられない。

 これまでずっと意識しないようにしていたものが考えが、思いがとめどなく溢れ出て、不安も恐怖も堰を切って押し出される。それが泣くという形を取って、すべての思考を掻き乱す。

 

 僕はだれ。

 僕はだれ。

 僕はだれ……!

 

「僕は悠だ。五十嵐 悠はだ。ずっと日本で生きていたはずの、何処にでもいる平凡な学生のはずなんだ。なのに、僕は何処にもいないんだ。僕はあおいじゃない。誰だよ、あおいって」

 

 悠は叫ぶ。それは責め立てるように、ぶつける先の無い悲鳴を上げる。これは相手にすれば理不尽な八つ当たりかもしれない。だが、言葉を吐くことが止められない。悠はさらに続けた。

 

「僕は君たちのことなんて知らない。なのにどうして?どうして、僕のためにこんなことするの?やめてよ。知らない僕のために、誰かを殺すとか、重くて耐えられないよ」

 

 悠としての確かな記憶があるのに、それは母親ですら有していなかった。それは勘違いの、思い違い。記憶が混乱して、空想と現実を取り違えているのだと、さとされた。

 

 それはでも変わらない。

 

 一見は、悠は悠として認められたように思われる。若干、髪質や目の形などあおいの特徴を受け継いでいると言えど、イメージ通りの男としての姿形を手に入れ、住人たちはみな、悠を「悠」と呼ぶ。

 でも時おり彼ら住人たちの視線の先には悠の知らない自分がいる。ここでも矢張り、悠はのだ。

 

 悠の声は、震えて、掠れていた。それでも、なおも言葉を落とし続ける。 

「僕はここにいるのに。誰も僕を知らないんだ。僕は本当に存在しているの?僕は……お願いだから」

 

 お願いだから。

 確かに自分が存在していると、証明させてくれよ。誰か、証明してくれよ。

 

 悠は嘆き、哭く。

「僕じゃない僕を生きるなんて、もう、うんざりなんだ。こんなのなら、あの事故のとき――死んでおけばよかったんだ」

 

 軀が死んで、にある「悠」が消えるのかは定かでない。けれども、一緒に死ねたのなら、こんなにも自分の存在なんてものに思い悩むことはなかった。

 

 やにわに、蓮が空いている方の左手で、悠を抱き締めた。

「……悪い。傷つけるつもりなかったんだ。ごめん。……ごめん!」

 

 なんて悲痛で必死さのある声。悠と蓮の横で、紫苑が驚き目を見開き、見上げた。あの蓮が謝罪するなんて。

 

 悠は蓮の腕から手を離し、力なく項垂れる。

「蓮さんは、僕じゃなくて、ずっと前の僕がいいんでしょう?」

 

 君が一番、僕を認めないじゃないか。そう、悠は吐き捨てる。

 蓮が悠のために怒り、誰かを殺そうとするのはきっと、「今の」悠の向こうに、「以前の」悠を見ているに違いない。がいったいどんな関係だったのかなんて、知らないし解りたいとも思わない。だってそれは、自分じゃない。その誰かが自分と同じであるという保証もない。

 

「違う!」


 珍しくも大きな蓮の声に、悠も、かたわらにいた紫苑もビクッと肩を震わせた。

 もう片方の手も悠の背に回し、蓮なその手に力を籠めていた。悠はぽかんとして、自分を強く抱きしめる蓮へ視線を落とすも、どんな顔をしているのかはわからない。

 

 蓮は切実さのある声で叫ぶように続ける。

「違う。俺は、俺はお前がいてくれるだけでいいんだ。勘違いさせたなら、努力する。これ以上お前を苦しめないように。だから、死ぬとか言うな。頼むから、いなくならないでくれ」

 

 懇願だ。それほどまでに、「かつての」悠に特別な何かを抱いていたのだろう。

 悠は黙して、聞いていた。もしかすれば、この少年は泣いているのかもしれない。いつもはぶっきらぼうな彼が、顔をぐしゃぐしゃにして、哭いているのかもしれない。

 

 蓮はしばらく悠を抱き締めたまま、体を小さく震わせていた。だがふと、動きを止めると、体を離して、小さく悪態づく。

「――くそ。もう、行かねえと」

 

 おそらく、クロレンスのことだろう。日本が夜、ということはもうまもなく、クロレンスに朝が訪れる。誰も窓をくぐらねば、ハーヴェイの軀は虚ろで眠ったまま。

 蓮は俯き、顔を見せぬまま、悠に背を向けた。

「努力する……だから……死ぬ、とか言うな」

 悠は答えない。

 だって、彼の真意がわからない。自分がいればそれだねでいい、という彼の真意が。それは本当に同じかも判らない、「以前の自分」に対する感情なのではないのか。それをどうやって、赤の他人である「今の自分」に向けられると言うのか。

 

 蓮はしばらく、背を向けたまま黙していた。ぎゅっと強く手を握りしめると、ようやく歩き始める。彼の中で、ハーヴェイを生かすのもまた必要なことなのだろう。悠はただただ、そのふらふらと階段を降りていく少年の背中を見届けた。

 

「ユ、ユウ」


 その声で、悠は紫苑へ視線を下ろした。

 煉瓦色の髪の女は座り込んだまま、赤い痣の残る首を手で押さえていた。かなり本気で締め上げられていたらしい。くっきりと手の跡が残っている。

 紫苑は気不味そうに、目を泳がせていた。悠も何だか気不味くて、目を合わせられず、視線をそらした。

「なんですか、紫苑さん」

「さっきは酷いことを言ってごめんよ。ちょっと……気が滅入っていたんだ」

 首から手を離して力なく下ろし、俯いて紫苑はしゅんとしている。よく見れば、その目元にはうっすらと隈がある。でも睡眠の不足は見た目に出るらしい。

 

 悠は紫苑へ手を差し伸べ、言葉を継ぐ。

「紫苑さんも、ずっと眠っていなかったんでしょう」

 蓮の行動を把握しているということは、その目で見たということ。つまり彼女もまた、一月ひとつきの間ろくな睡眠を取っていないということだ。

「どうせ、蓮さんが無茶をするのは僕のためなんでしょう。それなら、原因の僕に当たりたくなりますよ」

 当の原因が、何も知らないのだが。悠はなかなか手を取ろうとしない紫苑の手を掴み、立ち上がらせた。

 ――疲れた。

 ゆっくりと、玄関のある方を向き、廊下を見る。左右に扉の立ち並ぶ、長い、長い廊下。鎖で締め切られた部屋、プレートに名を記された「誰か」の部屋。あの中には自分のものもある。

 

 この景色は夢か、現か。

 

「僕は、何なんでしょう。僕は――ここにいる僕は、本当に在るんでしょうか」

 何が、おのれというものを、確かにされるのだろうか。悠は無意識に、左の親指をまた噛んだ。 

 

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