044-Y_日常(3)※改稿済


 次に悠が目蓋を押し上げると、そこは首都イェーレンから少し西にある街、ウェインリの宿の一室であった。

 窓の外を見れば、古典的クラシカルな煉瓦造りの街並み。まだ空の東の端から太陽が顔を覗かせ、柔らかな旭光きょっこうがその建物をなぞり始めたくらいの時間だ。その所為か、人通りは少ない。――久方ぶりのである。

 

「……外と中って違うんだなあ」

 思わず、独り言つ。

 

 その声も自分のものではないので違和感が仕事する。だがそれよりも、すべての感覚の鮮やかに驚かされる。

 朝の冷たい空気が皮膚を凍てつかせてヒリヒリさせるし、窓から差し込む光も眩しくて目が痛い。空気を吸い込んでみれば新鮮で爽やかな味のして、頭がしゃっきりする。そのことが、ここが現実なのだと確かに感じさせる。

 

(ゆ、ゆうお兄ちゃ……だいじょう……ぶ?)

 やにわに、頭の中で陽茉ひまりの愛らしい声がする。なるほど、蓮はいつもこんな感じなのか。悠はううん、と本日二回目の伸びをする。

 

「大丈夫だよ陽茉ちゃん」

(な、なにかあれば……ゆ、ゆって、ね)

「うん、ありがとう」

 

 紫苑の声がしない。ということは、蓮を呼びに行ったのか。

 ――行って、食べて、帰るだけ。

 やることを頭の中で整理しながら、悠は鏡台の前まで歩く。飯屋へ行く前に、最低限の身支度はしなければ。置いてあった水瓶を手に取り、ふと、悠は鏡に映ったおのれの姿を見た。

 

「なんかただいま、て感じだね……」

 

 映っているのは、小麦色の肌の西洋的で少女めいた顔立ちをした少年。この長く艶のある濡れ羽色の髪も、猫のような黄金こがね色の目も何だかとても懐かしく思える。

 別にずっと、クロレンスを見なかったわけじゃない。

 窓を通じて蓮のハーヴェイとしての暮らしは幾度となく見ていた。だがそれではたいてい顔は見えないし、何処か遠目に見ているのではっきりしていない。こうもくっきりと見えるのはならではだろう。

 

「さて……と」

 

 ぐうう、と腹の虫が鳴る。さては昨晩、食事を摂っていないな、というくらいにぐうぐう鳴る。意識すると血糖値が下がっているのかくらくらする。

「確か、食堂は宿を出て直進、それから左折してつきあたり……だったよね」

 相手がいないので、完全に一人喋りである。悠は顔を洗い、髪を梳いて革の紙紐で結わえる。あとはさっと(もたもたと)洋服を着てショートブーツを履き、深いグリーンの外套を羽織って身支度の完成。

 改めて身に着けると、現代日本の衣服の肌触りも動きやすさの素晴らしさを痛感する。着替えづらいし、着心地が悪い。

 

「誰も……いない……よね?」

 

 悠は部屋の扉を開けて、外をそっと覗き見る。朝っぱらからオリヴィアと鉢合わせだけは避けたい。演技は苦手なのだ。しかも、蓮のように女の子を冷たくあしらうなんて、絶対に無理。

 

「よし、いない」

 

 右よし、左よし。悠はほっとして、廊下へ出て階段を降り、宿の外へ出た。

 外へ出るといっそう、世界を鮮やかに感じた。天井や壁で光を遮られることもないし、室内のように空気の流れが滞って淀むこともない。何よりも。

 

「寒うっ」

 

 確か今は五月のはずなのだが、クロレンスは春になっても朝が寒い。悠は外套を手繰り寄せて体をぶるぶるさせ、縮こまる。

 ――でも、心地良いな。

 にはないものだ。自分は此処にいる、と実感できるような気がして、こういうのも悪くない。

 ――まあ、此処がクロレンスじゃなかったら、なんだけど。

 質素な幾何学文様の石畳を上を、悠は足早に歩き始めた。うっかりハーヴェイの知人(オリヴィアとか、オリヴィアとか。)に遭遇して、せっかくのいい気分を、冷や汗まみれの焦燥感に変えたくはない。

 行って、食べて、帰るだけ。そのあいだにちょこっと久しぶりの外を満喫できれば万々歳である。

 

 だがそうは問屋が卸さない。

「あら、ハーヴェイ?珍しく朝早いのね」

 

 後方から鳴らされたのは、聞き覚えのある少女の声。この声は窓からでも何度も聞いていたので、間違える筈がない。炎髪の美少女にして、ハーヴェイと同じ冒険者パーティーの鎚鉾メイス使い、オリヴィアである。

 振り向くに振り向けず、悠の内心はこの言葉でいっぱいである。

 

 ――終わった。

 

 黙ったまま動かなくなった少年を訝ったのか、オリヴィアはすぐそばまで歩き寄って、悠の腕を掴んで言葉を続ける。

「ハーヴェイ?どうしたのよ、固まって。まさか立ったまま寝てないでしょうね?」

 そんな器用なこと、できたらしたいところである。寝ているフリ。良心の呵責なく無視するにはうってつけだ。

 だが此処は外で、自分は立っている。天然キャラであれば此処で立ち寝を決め込んでも怪しくはないが、ハーヴェイである。普段は無愛想で、不躾で、敵には容赦のない荒くれ者。そんなのが道端で立ってぐうぐう寝息を立てていたら、なおさら不審というものだ。医者を呼ばれてしまうかもしれない。いや、確実に呼ばれる。

 

 悠は必死にに向かって呼び掛けた。

(紫苑さん、蓮さんまだですか!?)

(し、しお、しおん、お姉ちゃ……まだ、き、来てない……の)

 

 だが悲しいことに答えたのは陽茉。嘘だろ、と泣きたい。尻尾巻いて走って逃げ去りたい。

 ――どうする?

 悠は思案する。高速でどう行動すべきかを考えては却下し、また考える。とにかく、怪しまれず行動しなければならない。此処でまた、記憶喪失なんですは無理がある。

 ――駄目だ、いい案が思いつかないよ。

 此処は大人しく、蓮みたく「あ?」と凄みのある挨拶をするか?とてつもなく心苦しいし、顔を思いっきり引き攣らせてしまいそうだけど……。

 

「ちょっと、ハーヴェイ?」

 オリヴィアが悠の腕をさらに引き寄せて、顔を見ようとする。心臓がバクバクと鳴って五月蠅い。目が回り、思考が混乱する。悠はええい、儘よ!と内心で叫ぶ。

 

 その瞬間。

 

「五月蠅い。何度も呼ばなくたって、聞こえてる」

 低く、悪態付く言葉がハーヴェイの口より発せられる。眉根を寄せ、心からの不機嫌面を浮かべて。

「何よ、返事しない方が悪いんじゃない。殴るわよ?」

「すぐに拳で語るな」

「あんたには言われたくないわよ」

 

 それは滞りなく、違和感のない普段いつもの会話。

 その男女の楽しげでもない日常のやりとりを、悠は窓の向こうで見ていた。窓から放り出され、ソファの上で逆さとなった状態になりながら。

 

 そう。

 ぎりぎりで蓮と交代したのである。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る